昼食を食べようと3番目の姉と防空壕(ごう)から自宅へ帰る道中だった。パッと光りすごい音がして、怖くて姉にしがみついて泣いた。爆風は記憶にないが、家に帰ると炊事場の食器棚が倒れ、割れた小窓のガラスが散らばっていた。
毎年夏になると家の縁側で父や次姉から原爆の話を聞いたので、家族の体験が頭に入っている。原爆投下後、その日のうちに両親らは長崎市内の学校で簿記を習っていた次姉を捜しに行った。幸い10日に見つかったが、父は爆心地近くも回ったらしい。
終戦から10年間ほど、式見は好景気だった。漁船の船長だった父は家族を養うため、胃痛などの不調をおして働いた。薬草などで治療していたが、病院へ通うようになった。
父の体に紫色の斑点やがんの症状が出て、長崎大医学部付属病院に入院した。当時は布団や食料も家族が病院に持参した時代。病名がつかず、治りもしないので退院し、家での治療に切り替えた。
今でも分からないが、父の腰にはピンポン球ほどの動くかたまりがあった。かたまりが肩まで移動すると具合が悪くなるので、腰まで下ろしてあげた。私は希望した高校には行けず、県立長崎西高式見分校の夜間部に進学。昼間は親戚の家を手伝い、夜中は母に代わって父を看病した。冬の夜は、体が温まる前に何度も呼ばれることが悲しかった。父の体にあるかたまりを力を入れて動かすので、手の皮がむけてつらかった。
大阪のいとこが経営する鉄工所で働いていた次兄が帰ってきて、父が亡くなるまで付きっきりで看病してくれた。男手は助かったが、見ていて本当に大変そうだった。長兄が父を三菱長崎病院に入院させたが、医師から「残り1カ月」と宣告を受け、自宅に帰ってきた。その時には父はご飯も食べられず、少しでも体に触れると痛がっていた。
1958年5月、父は医師の宣告から28日目に亡くなった。集まった家族の顔を見て、母に何かを言い、涙を数滴流して息を引き取った。次の朝、遺体は骨と皮だけのミイラのようになっていた。一晩でこんな風になるのかと思った。その後、理科室の人体模型を見られなくなった。
「原爆症」が分かったのは少し後。父は後の人の役に立ったのだろうか。次兄は白血病で亡くなり、被爆当時0歳だった弟も白血病で闘病中。被爆の影響を考えてしまう。
◎私の願い
式見地区でも同じ時期に、治療のしようもなく、家で看病して亡くなった人がいる。私や私の家族のように、被爆後、病気になった人を看病した人たちがいることを忘れないでほしい。戦争がないことが一番の平和だと思っている。