当時私は諫早高等女学校に通っていた。長崎で原爆が投下された後、救援列車で諫早駅に運ばれてくる負傷者を客車から運び出すなどの救護活動に当たっていた。記憶があいまいになっている部分もあるが、悲惨な光景は今でも強烈に覚えている。
若い頃から戦争が身近にあり、移り変わりが激しい時代だった。戦時中は「欲しがりません勝つまでは」の精神で、ぜいたくは一切言えなかった。学校ではほとんど勉強ができず、私は学徒動員先の諫早市内の軍需工場で、飛行機の小さなパーツをえり分けたり磨いたりしていた。
あの日、いつも通りの作業をしていたら、「バーン」と耳に響くような音と爆風を感じた。長崎市の方角を見ると雲が立ち上っており、友人らと「あれは何だろうね」と話をしていた。
救護活動に当たったのは、その日からだったと思う。諫早駅に入ってくる救援列車には多くの負傷者が乗っていた。狭い客車の中は、とにかく血なまぐさかった。顔が血まみれになっている人や力なく席にもたれかかっている人であふれ、シートにも血がこびり付いていた。私たちは、歩ける負傷者とは手を組み、歩けなければ2人組で抱えて外に連れ出し、待機していた旧制中学校の男の子たちに引き継いだ。駅前の店の戸板を担架代わりに使い、負傷者をトラックに乗せるなどしていた。
駅近くにあった諫早海軍病院に、担架で負傷者を運ぶこともあった。病院に着いて、どこに降ろしたらいいかと迷っていると、男の人から「そこに置いてもう一回駅に行ってこい」と指示された。でも、建物の外の泥の上。そんな場所で頭を東の方に向けて負傷者が並べられた様子は、とても残酷な光景に映った。みんな話もせず、ただ言われるがままに寝かされていた。
救護活動は数日続いたと思う。私は運ぶのに精いっぱいで負傷者と話すことはほとんどなかったが、中には「水、水」と言っている人もいた。近くの川には水を求めて力尽きたのか、遺体が浮かんでいる光景を目にした。
当時私は看護婦さんに憧れていたが、この血なまぐさい救護活動を体験し、その道を諦めた。戦後は中学校の音楽教諭として県内の学校で勤務した。子どもたちに当時の体験を聞かせ、平和の大切さを訴えていた。
◎私の願い
同級生はほとんどいなくなり、当時のことを話せる人も少なくなっている。過去に悲惨な出来事があったことを忘れてはいけない。若い人も関心を持って当時の話を聞いてほしい。そして「平和」とは何なのか改めて考えてもらいたい。