飽の浦国民学校3年
爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町で被爆
1945年8月9日、朝早くに警戒警報のサイレン音が聞こえ、慌てて長崎市水の浦町の自宅を飛び出した。近くの防空壕(ごう)へと移動している時、音は空襲警報に変わった。ところが爆弾が落とされる様子もなく、しばらくすると警報は解除。「きょうは何事もなかったな」。安心した気持ちで家に戻った。
自宅には母と1歳の妹が残っていた。妹が高熱を出して避難できなかったという。診察のため、母は私も連れて隣町にある飽ノ浦三菱病院に向かった。
ガラス張りの病院は朝早かったからか人気が少なく、診察が終わるまでに時間はかからなかった。院内に併設された薬局へとつながる廊下で、同級生の母親とばったり遭遇。母親同士が世間話を楽しんでいる間、近くに座って時間をつぶしていた。
突然、白い閃光(せんこう)が「さささー」と瞬いた。反射的に薬局内に飛び込み、長いすの下に潜り込む。数秒後に「だーん」という音が轟き、病院を囲う窓ガラスが割れて降ってきた。怖くてしばらく動けなかったが、10分くらいたっただろうか、体を起こして周りを見渡すと、誰ひとり姿が見えなかった。右足首に5、6センチのガラス片が刺さる程度の軽傷だった。それを抜く時でさえ、怖さで痛みを感じなかった。
母と妹の安否が心配だった。もといた場所に戻ると、母は妹を包み込むようにしてしゃがみ込んでいた。「どこに行っとったとね」。怒り口調の母も自分と同じように家族の身を案じていたのだ。2人にけがはなかった。
「また近くに爆弾を落とされるかもしれない」。おびえながら、3人で近くの飽の浦国民学校にある防空壕へと急いだ。しばらく待っても爆弾が落ちてくる様子がなかったため、午後3時半ごろに帰宅。木造2階建ての家は爆風で傾き、中は食器や倒れた家具で散乱していた。
台所にあった釜の中には、母が朝に炊いたかぼちゃ飯が残っていた。当時高級だった米はほとんど入っていなかったが、何よりうまかった。それから1週間は防空壕と自宅を行き来する生活を続けた。
母は原爆投下前から毎日のように「死ぬ時は一緒だからね」と私に言い聞かせていた。だから終戦の知らせを聞いて感じたのは、日本が負けた悔しさでも悲しさでもなく、生き残った安堵(あんど)感だけだった。
<私の願い>
戦争だけは二度と起こしてはならない。核兵器禁止条約が採択されたが、まだまだ核廃絶までに時間がかかるだろう。原爆で生き残った者の責任として、教科書では学べない被爆の実相や核兵器の恐ろしさを、若者たちに伝え続けていく。