9人きょうだいの長男として生まれ、親代わりのように弟や妹たちと山や田んぼで遊び、お守りをしていた。子どもの頃の思い出は、農家だった両親の手伝い。国から米も麦もほとんど取り上げられたので、子どもながらに戦争を恨んでいた。
あの日はいつも通り、きょうだいの面倒をみながら農作業をしていた。夜ご飯にする鍋の仕込みをしようと、家に戻った時、突然の爆風に襲われた。窓がない家だったので、家族みんな吹き飛び、しばらく動けなかった。何が起きたか分からなかった。
警防団の詰め所から帰ってきた父は、浦上方面へ確認に出かけた。夕方、同じ小学校に通っていた男の子のお父さんが、全身真っ黒になった男の子を抱えて、「預かってほしい」と頼んできた。全身にやけどを負い、わらで作った入れ物の中でうずくまっていた姿は一生、忘れられない。
家族と鍋を食べ、夜は防空壕(ごう)の中にじっとしていた。ふと外を見ると、紙くずが雪のように、黒い雨とともに降ってきた。雨の音とともに、これからどうなるんだろう、と不安が頭の中をよぎり、生きた心地がしなかった。
翌日、隣の家に住んでいた学校の先生から「新型爆弾が落ちたらしい」と聞いた。帰ってきた父は「子どもの行くところじゃない!」と強く言いい、その言いつけを守った。ずっと後に、全滅した長崎の町を写真で見た時、やはりあの日はただごとではなかったのだと再認識した。
1週間たってから父の目を盗み、西浦上国民学校へ行った。校舎は焼けていなかったものの、建物が爆風でべしゃんこにつぶれていた。現在の岡町あたりは全て焼け、大橋の三菱の兵器工場は屋根が吹き飛ばされて鉄骨が折れ曲がり、町中は死体だらけだった。戦争はこんなにひどいものなのか、と思った。
終戦後、ボロボロになった校舎で学び、西浦上中を卒業後、高校へ進学した。勉学に理解のあった父には感謝している。家業の農家を継いで酪農も始めたり、老人ホームで働いたりした。定年退職後、浦上地区防犯協会や地域の民生委員として活動した。
この年になるまで被爆体験を語ることはなかったが、残りの人生が少なくなり、体験を生かして全世界に平和を呼びかけていきたい。命を終える「その日」まで「あの日」の体験を1人でも多くの人に伝えたい。
◎私の願い
ロシアとウクライナが戦争をしているが、核兵器使用につながらないか心配。こんな醜い戦争は絶対にしてはだめ。核兵器が使われないという保証はない。国連主導で核廃絶を進める必要がある。世界中が早く平和になりますように。