あの日は青空だった。勤めていた長崎要塞(ようさい)司令部から休暇をもらい、高台のかぼちゃ畑で草取りをしていると、B29がキラキラしながら2機飛んできた。空襲警報で車も工場も全て止まっていたが、警戒警報に変わり、みんな仕事に戻っていた。
それから5分くらいたった後だった。ピカーッと光って、爆風とともに黒い油が降ってきた。金比羅山の谷の向こうに、赤と黄色のどろどろした煙のようなものが上空に上がっていた。後に見た水爆の原子雲がまさにそれだった。上半身裸で作業していたので、右腕と脇腹にやけどをした。近くの麦わら屋根の小屋は燃え、畑の葉も油が当たった部分は枯れてしまった。
家に帰ると爆心地方向の屋根瓦や天井、壁がやられ、空が見えていた。反対側の台所にいた祖母は無事だった。やがて空全体が真っ黒になり、燃えかすがたくさん飛んで来た。雨も降ってきた。「黒い雨」といわれるものだろう。
家の下の畑にいた父は「金比羅山があったおかげで助かった」と言った。原爆がさく裂したのは上空約500メートルといわれるが、金比羅山は約360メートル。私がいた畑は金比羅山が正面にあったので、爆風などをさえぎってくれた。本当に金比羅山より高い位置でさく裂していたら、助かっていなかったのではないかと思う。
夜になり町内の防空壕(ごう)に行った。住民が複数いて、金比羅山の向こうに火の玉のような丸い光が上がっていくのを見た。翌日、要塞司令部に行き、やけどに油を付けてもらった。町中の火を消す人がおらず、燃え続けていた。
その後、矢上の先の方に「米国の落下傘が落ちた」と聞いた。見に行くと木碑が建てられていた。原爆の被害は円状に描かれるが、風向きなどで(放射能の影響が)変わらないだろうかと疑問に思っている。
当時、木造の建物がほとんどで、原爆で燃えてしまった。旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)の残骸や八千代町の倒れたガスタンクの光景は今も頭にある。城山や山里は道を歩いていても分からなかった。1週間ほどたって、浦上で燃えた電車が6~7台並んでいるのを見た。木造部分は燃え、残った鉄の上には白骨があり、「原爆では生きながら火葬されるとばい」と思った。
◎私の願い
戦争も核兵器ももちろんなくしてほしいし、なくなれば一番良いが、今の状態ではなくならない。日本は島国で逃げるところもなく、核兵器を使われたら終わってしまう。一人でも多く助かるように考えてほしい。