橋元巌さん(90)
爆心地から2.2キロの長崎市稲佐町1丁目で被爆

私の被爆ノート

学徒動員の姉 犠牲

2023年4月6日 掲載
橋元巌さん(90) 爆心地から2.2キロの長崎市稲佐町1丁目で被爆

 着物の洗い張りを営む長崎市稲佐町の自宅に、両親と2人の姉、弟の合わせて6人で住んでいた。兄が1人いたが、既にビルマ(現・ミャンマー)で戦死していた。
 あの日は夏休み。暇をつぶそうと朝から近所の大きな家の庭の工事を見に行っていた。室内から眺めていた時、突然ピカッと強い光。次の瞬間、とても激しい風で立っていられず倒れた。ばーっと建物が壊れるような大きな音がしたことも覚えている。それから急いで帰宅した。
 「とにかく逃げよう」と、午後1時か2時ごろ、家族5人で稲佐山へ。学徒動員先にいた6歳上の長姉だけいなかった。そこにはちょっとした広場があり、他の人たちもいて混み合っていた。何が起こったのか分からない中、周りの人々が話す内容がとても恐ろしかった。それでも「やっとここまで逃げてきた」という少しほっとした気持ちもあり、家族で身を寄せ合い夜を明かした。
 翌日、午後2時か3時ごろ稲佐山を下りた。もっと遠くに逃げようと、西彼時津村(当時)の知り合いの小屋まで歩いて避難した。途中の光景は言葉にならない。焼けただれた人や親子で抱き合い真っ黒焦げになっている姿など、そういう惨状をたくさん見た。「これはとてもとても、大変なことになった」と思った。
 時津の小屋に着いたのは、もう夕方。1週間ほどそこで暮らした。食事は小屋の持ち主が持ってきてくれたと記憶している。
 姉が動員されていたのは、爆心地から約1キロ離れた三菱長崎兵器製作所大橋工場。前日は体調不良で仕事を休んでいて、9日朝は「行きたくないけど行かなきゃ」と言いながら家を出た。「きっとこの辺りだろう」と、何度も時津と長崎を行ったり来たりして母と一緒に捜したが、姉を見つけることはできなかった。多くの若者がここで犠牲になった。
 その後、市内に戻って片淵に家を借りて住み、やがて妹が生まれた。戦後は何とか食べていけるほどの生活で、懸命に生きた。昼は働きながら長崎市立高(現・県立鳴滝高)の夜間定時制に通い、明治大政治経済学部に進学。高校教師になりたかったが、両親に戻ってくるよう言われ、24歳のころに長崎市の浜屋百貨店に就職した。晩年に皮膚がんを患い、被爆の影響でもっと大きな病にかかるのではと不安もある。

 

◎私の願い

 大きないざこざもなく、平穏に暮らすことができている今は平和だと感じている。一方で、ウクライナなどでは今も戦争が起こっていて、争いごとは本当に嫌だ。日本も世界も今後、争いごとがなく平和であってほしい。

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