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松尾義高さん(88)
爆心地から2.5キロの西山町4丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

たたきつける黒い雨

2023年03月02日 掲載
松尾義高さん(88) 爆心地から2.5キロの西山町4丁目(当時)で被爆

 当時は親から「勉強しては飯は食べられん。仕事をしないと」と言われる時代。小学5年生だったが大きな親牛を飼いならし、大人と変わらない仕事を任されていた。帳面も鉛筆もなく、学校へ行っても勉強は分からず大嫌いだった。飛行機の燃料にするため、松の木から樹脂の松やにを竹筒に集め、先生へ渡していたことは覚えている。
 あの日、午前9時ごろ母や弟と自宅を出て、40メートルほど斜面を上がったところにある段々畑へ。イモの草取りをしていると、三ツ山方面から敵機が高く飛んできて金比羅山方面へ遠ざかった。安心したのもつかの間、5分ほどして再び高度を下げて近づいてきた。
 「機関銃で撃たれる」。とっさに畑の畝に伏せた。あの時の恐怖は今も忘れられない。目をつぶっているのに火の中に入ったように強く明るい黄色の光。「ドガーン」という爆音と共に、ものすごい地盤の揺れを感じた。雲は隠れてしまい、夜みたいに辺りは真っ暗。油臭く、土を溶いたような粘り気のある「黒い雨」が、空から地面に投げ付けられるように降ってきた。始めは大粒、後はパラパラと音を立てて。金比羅山の向こうを見ると、浦上方面の空は火で真っ赤だった。
 自宅に戻ろうとしていたら、妹を抱っこした父が「上がれ上がれ」と言いながらやって来た。自宅は屋根や瓦が落ちたが家財道具は無事。家族にけがはなかった。通りかかった郵便配達の男性にも声をかけ、段々畑の横の大きな柿の木の根元にみんなで集まったので黒い雨にぬれずに済んだ。防空壕(ごう)に避難をしたのは夕方になってから。「恐ろしい、恐ろしい。5分先がどうなるかも分からん」。母は何度もこう言った。
 終戦後すぐ、家族全員で市東部の間の瀬にある父の実家に身を寄せた。段々畑で収穫したカボチャやイモを牛に載せ、片道5~6時間の道のりを間の瀬まで1人で何往復したことか。家族に食べさせるためとはいえ、つらかった。当時の自分と同じ小学5年のひ孫を見る度に、ついそのことを話したくなる。
 野菜を作っていたおかげでひもじい思いはしなかったが、街の人は牛の餌にするイモさえも欲しがり、着物などと交換しに来るほど食糧不足は深刻だった。物資もなく、瓦の代わりにかぶせるのは杉の皮。木から剥ぎ、父と日当を稼いだ。

◎私の願い

 厚生労働省は「黒い雨」が降った客観的な証拠はないとしているが、多くの証言もあるのに認めないのはおかしい。子や孫に私のような経験をさせたくない。世界中が平和であるように、願わずにいられない。

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