西浦上国民学校川平分校の2年生。家は農家で家族は両親と姉3人、弟。まだ幼かったので細かいことは覚えていないが、空襲警報があればしょっちゅう山に逃げていたのは覚えている。川平にも焼夷(しょうい)弾が落ちたことがあって、3軒が燃え、飼い牛が焼け死んだのを見に行った記憶がある。
8月9日は自宅の敷地で遊んでいた。ピカッと光った後、爆風を浴び、背後の小屋の奥に扉と一緒に吹き飛ばされた。自力ではって出た。けがはなかった。
小屋も家も丈夫に建てられていたので、爆風で壊れるほどの被害はなかった。ただ、室内の障子はみんなばたばたと倒れていた。近くの芋畑で草取りをしていた両親がやがて戻ってきた。家族はみな無事。親が「けがせんやったけんよかった」と言った。
近所の麦わら屋根の家に火が付き、煙が上がった。家が何軒も燃えた。うちは瓦屋根だったので無事だったのだと思う。遠くの爆心地の方の空も燃えているのが見えた。原子爆弾の威力がいかにひどかったのかということだ。
夕方近くになると、家の下の道を、浦上方面で原爆に遭った人々が長与や伊木力の方角へ歩いて行く姿を見た。やけどをしてひどい姿をしていた。身内を探しにまちの中心部へ向かう人もいた。
近くの筒水(とっぽみず)という場所には湧き水があり、普段は道を行き交う人の休憩の場になっていた。だが、逃げる時に筒水で水を飲んだ人は早死にしたと、後で親から聞いた。
20人ぐらいいた分校の同級生に、原爆でやけどをした子はいなかった。投下時に川で裸になって遊んでいた子がいなかったせいかもしれない。5年生になって爆心地に近い西浦上の本校に通うと、同級生の中には体にやけどの傷痕がある子がいた。川遊びの際にそんな裸を見ると、原爆はやはりひどかったのだと思った。
当時の家に今も住んでいる。爆風で倒れた障子の枠は、そのまま15年ほど使い続けた。その後新しく取り換えた際、原爆に遭ったことを忘れないために、処分せず倉庫にしまっている。10枚ほどあるはずだ。
子どもにはある程度原爆の話をしている。それが孫にも伝わっていたらいいなと思う。奈良に住んでいる孫が帰省する機会があれば、しまっている障子を見せて当時の話をしてもいいなと思っている。
◎私の願い
核実験にも反対、防衛費を上げるのも大反対だ。今の若い人がまた戦争や原爆に遭うことのないようにしなければ、日本の国はだめになってしまう。原爆を体験した自分だからこそ言えることだと思う。