11日の朝、母の遺骨を持った叔父に手を引かれ、被害がひどい爆心地を通り、道ノ尾駅に向かった。焼け野原には男や女の区別が付かない、黒焦げの遺体がごろごろと転がり、浦上川は水を求めて力尽きた遺体で覆われていた。今でも目に焼き付いている。
爆心地から約3・5キロ離れていた道ノ尾駅には臨時救護所があり、医師に背中を治療してもらった。ピンセットで抜いた直径3センチほどのガラスを見せてくれたのを覚えている。処置をしてもらい、乗り込んだ列車は避難する重軽傷者でいっぱいで「地獄列車だ」と思った。
諫早駅で降ろされ、小学校に設置された救護所で医師に診てもらった。医師は血便を見て赤痢だと診断し、諫早市内の感染症専門の病室に入った。叔父と引き離され、被爆者ではなく、赤痢患者と同じ部屋で療養した。ベッドや毛布が与えられ、炊いたおかゆをこしたおもゆなど、消化に負担が少ない物を食べて過ごした。高熱や血便は2週間ほど続き、ここで死んでしまうのではないかと危惧したが、次第に熱が下がり、食欲も戻って9月の初めには退院した。今振り返ると、原爆の放射線の影響だったと思うが、赤痢と診断されたことで手厚い看護を受け、結果的には幸運だった。高熱で入院している最中に、太平洋戦争は終わっていた。
退院後は島原市に住む母方の叔母の家で2カ月静養した。11月に3カ月ぶりに長崎市に戻り、片淵町(当時)で暮らす、別の叔父夫婦のもとに身を寄せた。
通っていた旧制県立瓊浦中学(現・竹の久保町)は爆心地に近く、廃材の山になっていたという。そのため、被害が少なかった旧制県立長崎中(現・鳴滝1丁目)の仮校舎に生き残った先生や生徒が集まり、授業が始まっていた。
共に入学した300人のうち、114人が原爆や後遺症で亡くなった。原爆投下翌日に再会した同級生も、後日亡くなったと聞いた。今でもどこでどんな最期を遂げたのかも分からない学生もいる。
原爆で夢や希望を打ち砕かれた同期生の分も原爆の実相を語り継ぐ使命があると思い、20年ほど前から被爆体験の語り部活動を始めた。幸運にも自分は生き延び、子や孫に命のバトンを渡すことができた。亡くなった仲間の分まで生き、体が続く限り語り継いでいきたい。
◎私の願い
外に目を向けると、核兵器保有国も増え、紛争やテロは後を絶たない。原爆を体験した者として、風化させず語り継がないといけないが、被爆者なき世界が迫る。若者の新しい発想で、核兵器がない平和な世界の実現に取り組んでもらいたい。