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博多屋敏昭さん(79)
被爆当時2歳 爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

私の被爆ノート

記憶なくとも語る

2022年11月25日 掲載
博多屋敏昭さん(79) 被爆当時2歳 爆心地から1.5キロの長崎市銭座町で被爆

 被爆した時のことは覚えていないが、親類によると、当時母と銭座町の自宅にいて、家の中の壁が熱線から守ってくれた。母が、幼い私を背負って山の中へ避難したのだという。
 父は既に中国で戦死。原爆で母の兄や弟は片目を失ったり、体にひどいやけどを負ったりし、妹の家族は全員命を落とした。祖母は放射線の影響だったのか、顔や体の色素が失われ、最期まで元の状態には戻らなかった。母と自分が無事だったのはほんの偶然だったのかもしれない。
 終戦後、母と一緒に祖母の家に移り住み、南大浦小(現在の大浦小)に入学。食事はもっぱらイモやメリケン粉で作った団子。給食は脱脂粉乳とパンだけだった。それでも余った脱脂粉乳の粉は真っ先にもらった。甘いものが食べたくて仕方なく、学校の近くの段々畑からイモを盗んで食べたこともある。
 中学を卒業した後は高校には進学せず、伯母のつてで籠町のクリーニング屋で半年間働いた。「見習いがほしい」。福岡県で武道具製造会社の社長をしていた遠い親戚から誘われ、福岡へ移住。懸命に働いたが、望郷の念が募り、24歳で長崎に戻った。
 その時には、祖母が手続きをして被爆者手帳を取得していた。原爆の記憶こそないものの、被爆者としての実感が湧いた気がした。福岡から戻った後、長崎市大浦町に武道具店を開業。25歳の時に結婚し、3人の子を授かった。
 長崎市築町に「博多屋武道具店」を開いたのが2005年。剣道具作りは最初から最後まで一人でこなす。だからこそ完成した時の喜びはひとしお。平和の世の中で、子どもたちには自分が作った道具で剣道に励んでほしい。そう願ってやまない。
 出稼ぎなどをして必死に働き、一人息子だった私を育ててくれた母も1999年、95歳で亡くなった。思い出したくもなかったのだろう。母の口から戦争や被爆体験を聞いたことはない。
 長崎原爆資料館にはたびたび足を運んだことがあるが、約10年前、広島市の平和記念資料館を初めて訪れた。原爆の惨禍を改めて思い知らされた。原爆に遭ったのは物心つく前で、人に語れるほどの被爆体験があるわけではない。これまで証言などをしたこともない。それでも自分自身にできることがあるのなら、語れるうちに語っておきたい。そう思った。

◎私の願い

 核兵器をなくそうとする人が世界の指導者になり、核を廃止・廃棄してほしい。核実験をしたり、核で脅そうとする国もあるが、要らないことをするなと言いたい。戦争は必ず死者を生む。被爆者として戦争のない世界を願う。

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