外園タキノさん(84)
被爆当時7歳 西浦上国民学校2年

私の被爆ノート

自宅 燃え尽きる

2022年9月15日 掲載
外園タキノさん(84) 被爆当時7歳 西浦上国民学校2年

 西浦上国民学校2年の頃、長崎市三川町の自宅で被爆した。けがはなかったが、家が焼けた。77年が過ぎても、苦労したぶんだけ忘れない。8月9日が毎年巡ってくれば今でも涙が出る。あの日の景色が鮮明によみがえる。
 あの夏は空襲のサイレンがよく鳴った。教室にいると、すぐにノートや教科書を風呂敷にまとめ、地域ごとに運動場へ集まった。山を越えて家に帰り、警報が解除されると、また学校に戻る。その繰り返し。好きだった勉強をする時間は、ほとんどなかった。
 8月9日はよく晴れた暑い日だった。農業を営んでいる実家のやぐらにいた。きょうだい3人と草履を作っていると、ピカッと光ってドンと音がした。つるしていた何かが落ちてきてびっくりした。
 外を見ると、麦わらの屋根に白い綿みたいなものが落ちてきた。火が付いてあっという間に燃え広がる。まだ幼かった私は何をしていいか分からず、ぼんやりしていた。2歳上の姉は急いでたんすから何か大切な物を持ち出してきた。大きかった家も見る見るうちに燃え尽きた。飼っていた牛は、なぜか小屋から出て道に黙って立っていた。
 原爆が落ちた時、母は畑にいた。すぐに伏せたが、片方のほっぺたをやけどした。薬がなかったので、キュウリを割って冷やしていた。しばらくして消防団の活動で出かけていた父が戻ってきた。普段は必要以上にしゃべらない父が、涙を流して「よかった」と喜んでくれた。
 町内の防空壕(ごう)へ向かう途中、道端に草が生えていた。その上にコールタールのような黒い雨がべたっと落ちていた。これ何だろうと思ったけど、何かは分からなかった。
 一晩くらい防空壕で過ごした後、近所の叔母さんの家で世話になった。3所帯集まって20人くらいいた。炊いてもらったカボチャ飯や芋飯がおいしかった。終戦後、よその家の人が帰ってきた。傷痕に湧いていたうじを箸とか棒とかで取っている姿を不思議そうに見ていた。
 「米国が来る。殺される」と聞いて、全員で牛も連れて山へ隠れた日もあった。何もなかったが、恐ろしかった。
 数カ月後、家があった所に柱を4本建てて、動かないようにくくった。父と母ときょうだい3人と寝た時、誰かが言った。「こんな所でも家がよかにゃー」。しばらくは掘っ立て小屋で暮らした。

◎私の願い

 原爆でいろいろ苦労したことは、味わってみないと分からない。行きたかった高校にも行けず、私のような思いを子どもたちにはさせたくなかった。今は子どもが親にしたり、親が子どもにしたり、いろんな事件がある。なくなってほしい。

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