髙原廣行さん(80)
被爆当時3歳 爆心地から4.7キロの長崎市東琴平町(当時)で被爆

私の被爆ノート

母が守ってくれた

2022年04月14日 掲載
髙原廣行さん(80) 被爆当時3歳 爆心地から4.7キロの長崎市東琴平町(当時)で被爆

 3歳11カ月の時に被爆した。当時は父が兵役のため家におらず、母と11歳の姉、1歳の妹と暮らしていた。
 8月9日は自宅から50メートルほど離れた場所にある石段で、1人で遊んでいた。おもちゃがなかったので、れんがや瓦の破片を石段でこすり、粉にする遊びにはまっていた。
 夢中で遊んでいると、姉が私を探しに来た。緊急だったらしく、手を引かれて自宅へ帰った。いつもは自宅から約100メートル離れた防空壕(ごう)に避難するのに、その時は急いで家の押し入れに入った。下から妹、私、姉の順番に重なり、最後に母が覆いかぶさって守ってくれた。
 押し入れに入ってすぐ、ものすごい爆風に襲われた。窓ガラスはほとんどが木っ端みじんになり、畳の上に散乱した。私の頭にもガラスの破片が突き刺さっていたらしいが、あまりの恐怖で痛みを感じなかった。爆風の後、近所のおばあさんの「やられたー」という叫び声を聞いた。それが今も耳に残っている。
 自宅は2階建てで、2階に縁側があり、その先には畑があった。1階の柱にかけていた時計が畑まで飛ばされていて、それを見つけた時は大騒ぎだった。それほどすさまじい爆風だったのだろう。時計の針は11時2分で止まっていたそうだ。
 その日の夜、爆心地方面を見ると、真っ赤で、どす黒くて、とにかく怖い色をしていた。後になって、あの時落とされたのは普通の爆弾ではないと知った。
 原爆投下から数日がたって、誰が言ったのかは分からないが「米軍が上陸してきて、女性や子どもは被害に遭う。避難しなければ殺される」という話を聞いた。私は母の実家の五島に行くことになった。実家は私たち家族を歓迎してくれた。農家だったので食材が豊富で、これまでの貧しい食生活が一変し、うれしかったのを覚えている。
 放射線の影響か、母と姉は病気がちだった。姉は肺を悪くして、中学生の頃はほとんど寝たきりだった。母も胃の具合が悪いと言って、薬をよく飲んでいた。胃や腸も何度か手術をして、最後は人工透析となった。
 私と妹は幸い、原爆による健康への影響はなかった。あの時、母が覆いかぶさって守ってくれたからだと思う。今になって、子どもを思う母の強さを感じている。感謝の気持ちでいっぱいだ。

◎私の願い

 核兵器は絶対に使ってはいけない。もし使えば、地球から人類がいなくなってしまうかもしれない。それほど恐ろしい兵器なのに、核保有国はなぜ分かってくれないのか。歯がゆい思いだ。日本政府には核兵器禁止条約の批准を強く求めたい。

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