空襲警報が頻繁に鳴り、勉強はほとんどできない日々。授業を受けることもできず、学校周辺で燃料代わりの松やにを採取したり、サツマイモやムギを育てたりした。海辺では教師や地元の大人たちと米軍上陸を想定した軍事訓練にも取り組んでいた。
大人になったら兵隊に志願したい気持ちはあった。しかし竹やりを使った海辺での訓練は「機関銃を持った米兵に歯が立つわけがない」と冷めた目で見ていた。
8月9日は夏休みだった。連日空襲が続く中、自宅にいることもできず、20人くらいの友人たちと学校に集まり遊んでいた。校庭にあるセンダンの木陰で涼んでいたときのことだった。雲の間を飛んでいた飛行機がパラシュートのような物を落とした。
「米軍は落とす物がなくなり、ついにビール瓶を落としてきた」。私が言った冗談を皆が笑った瞬間、稲妻のような強烈な光が波のように押し寄せてきた。
木々の葉の間から熱線を浴び、肌はやけどをした。学校から数十メートル離れた自宅を目指して駆けだすと、続いて爆風に背中を押され、倒れそうになった。自宅に戻ると、倒壊寸前で家の中は畳がめくれたり障子が飛ばされたりしていた。わら草履が燃えており、家にいた祖父らが必死で消火に当たっていた。
両親は農作業から駆け付けた。母は三菱の工場で軍艦の建造に携わっていた長男を長崎市中心部まで捜しに行くと家を出て、私も後を追った。途中、警防団の大人たちから「子どもが行く場所ではない」と止められているとき、全身をやけどした女性が目の前に現れ、「水をくれ」としがみついてきた。母が引き返して来て、私も一緒に長男を捜しに行くことになった。
小江原付近を通るとき、灰とともに黒い雨が降ってきた。油木付近ではつぶれた家屋の下敷きになった人を男性が助けだそうとしていたが、火の手が迫り、中から女性の悲鳴が聞こえた。市内の中心部に向かい、下大橋の近くまで行くと馬や女性、子どもの死体が並んでいた。路面電車からは煙が上がっていた。これ以上進むことはできないと判断し、引き返した。長男は数日後、無事に帰宅。家族で喜び合った。幸町の工場で救護に携わっていたという。
ただ、炭のように焼けた死体が道端に横たわっていた光景は今でも忘れられない。
◎私の願い
米国政府などは核兵器の恐ろしさを再認識してほしい。長崎、広島への原爆投下は都市破壊の効果を探る実験だと思っている。世界規模の法律で核兵器の使用を禁止し、使用した国はどんな理由があろうと、被爆者救済の責任を取るべきだ。