数日後、私たちは燃え尽きた自宅と牛小屋を後にして、小江原の大平に住むおばの家へ移った。弟は前面のやけどがひどかったため、母が背中合わせにおぶった。弟はこう語ったそうだ。
「母ちゃん、おいは天皇陛下に忠義を尽くさじな死ぬかもしれん」
母は「何ば言うか。病気ば治してアメリカばやっつけに行くとやろうが」と励ましていたという。だが、弟は次第に意識が混濁していった。数年前に小江の浜に連れて行ってもらったのが楽しかったのだろう。「泳ぎに行こうで」とうわ言を繰り返した。
14日夜、弟は死んだ。同じ頃に死んだ近所の女の子と一緒に焼いたのだと、後で母から聞かされた。
父は大平でどうにか元気に生活していたが、だんだん体の傷が化膿(かのう)した。薬になると言うので私は毎日山にツワの葉を採りに行き、母は「ばい菌殺しになる」と何キロも離れた相川までドジョウを捕りに行った。だが、父の手の甲には小豆ほどの斑点が現れるようになった。父は「こげんとの出れば死ぬとやろ」とつぶやいていた。
9月1日。父の容体が悪化した。親戚を呼びに行けと言われ、戦争が終わったと知らない私は「B29の来るけんいかん」と父の横にいた。被爆前は「空襲になれば学校に行かんでよかな」ぐらいに考えていたのだが。父が「行ってこい」と叫ぶので、驚いた私は親戚の家へ走った。
親戚に容体を告げ大平へ戻ると、おばが「はよ来んね」と叫んでいた。私は父の耳に口を当てて「父ちゃん、父ちゃん」と呼び掛けた。だが、返事はなかった。父は苦しそうに顔をゆがめ、よだれを垂らしたまま死んでいた。
相川から母が戻ってきた。手には父のために捕ってきたドジョウがあった。母は泣きながら、冷たくなった父の背中をたたいた。「家も焼けてしもうて、子どもたちと私を残して、後はどがんやって生きればよかとね…」
9月の始めは雨が続いた。なかなか父を焼くことができず、死臭が満ちた。4日になりやっと朝から晴れた。私は「ああ、これでやっと焼けるばい」と思った。子どもでもそんなことしか考えられなくなってしまっていた。亡くなった親戚の足元を通りながら父を戸板に乗せて運び、焼いた。燃やすのに使った薪は、父が生前に自分で切ったものだった。
◎私の願い
戦争はいけない。戦争になればまた自分たちのような人生を送る人が出てきてしまう。「核のごみ」の問題がある原発もやめてほしい。原発に使う予算があるなら、海洋発電などもっと他の分野に力を入れてもらえないだろうかと思う。