貞方慶さん(94)
被爆当時17歳 活水女子専門学校1年 入市被爆

私の被爆ノート

「造船所に爆弾が」

2021年12月23日 掲載
貞方慶さん(94) 被爆当時17歳 活水女子専門学校1年 入市被爆

 長崎市新中川町に自宅があり、両親と妹、弟2人の6人家族。父は三菱造船所の技師で忙しく、終戦までは母ときょうだい4人で暮らした。
 当時17歳。活水女子専門学校保健科の1年生だった。学徒動員で大波止から西彼香焼村(現長崎市)の川南造船所に船で通い、何に使われるのか教えてもらえないまま、毎日黙々とガラス板の縁の凹凸がなくなるよう削っていた。
 8月9日は天気がとてもよかった。いつも通り造船所へ向かい、工場の2階で作業をしていると、爆音がしたのだろうか、はっきりと覚えていないが、瞬時に「造船所に爆弾が落とされた」と感じ、とっさに机の下に身を隠した。窓の外にはきのこ雲が見えた。
 一緒に作業をしていた他の学生らと2階から滑り台のようなもので外へ避難した。当時、滑り台を下る訓練が何度かあったが、私は怖くて一度も練習したことがなかった。ただ、あの日は無我夢中だったのだろう。滑る途中で荷物か足かが引っ掛かり、逆さになって頭から落ちたが、無事に下りて防空壕(ごう)を目がけてとにかく走った。既に壕の中は造船所で働く外国人捕虜でいっぱいだった。友人と別の避難場所を探したが見つからず、ずっと走り回って逃げていた記憶がある。
 夕方になり、自宅へ戻ろうと船に乗ると、原爆の影響か、船は大波止ではない別の場所に止まった。現在の松が枝岸壁辺りだったと思う。そこから新中川町の自宅まで、行列に付いて歩いて帰った。自宅に近づくにつれ、衣服が真っ黒に焼けた人やけがをしている人が目に付くようになり、寺町辺りでは浦上方面が燃えている様子も見えた。とても恐ろしく、早く家族に会いたいという思いで長い道のりを進んだ。
 けがややけどを負っていたわけではなかったが、走り回ったことで疲れ果て、どんどん列から遅れていった。ようやく自宅近くの防空壕にたどり着いた時には家族は皆そろっており、無事だった。友人の中には翌日から学校へ行った人もいたようだが、私は終戦まで恐怖から外に出ることができず、ずっと防空壕で過ごした。近所にあった伊良林国民学校の校庭では住民が遺体を焼いていて、ずっと臭いがきつかった。
 あの日以降、川南造船所があった場所付近へは一度も行っていない。いつか行きたいと思っている。(橋本真依)

◎私の願い

 戦争をしてはならないと身をもって体験した。年を重ね、友人と電話をすると、近況報告の後に必ず「私たちの青春は暗黒の時代だったね」と当時を振り返り、受話器を下ろす。平和を願うと同時に、明るい青春を取り戻したいと思っている。

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