大庭義弘さん(82)
被爆当時5歳 入市被爆

私の被爆ノート

原爆症の恐怖尽きず

2021年12月9日 掲載
大庭義弘さん(82) 被爆当時5歳 入市被爆

 長崎市竹の久保町で生まれ育ち、父は茂里町の三菱長崎製鋼所に勤めていた。いよいよ空襲が激しくなった1945年7月、両親と姉の4人で喜々津村(現在の諫早市多良見町)の親戚を頼って着の身着のまま疎開。電気や水道はなく、食べ物もないので母の着物をイモやカボチャに換え、雑炊にして食べていた。
 8月9日は家族そろって畑作業をしていた。午前11時ごろ、ピカッと閃光(せんこう)が走り、目の前が見えなくなった。約10秒後、ドカーンという大きな音がして、山全体が揺れるような爆風に家族全員が10メートルほど飛ばされた。幸いけがはなかったが、空は真っ赤に染まり、じきに闇に包まれた。約20分後、薄明かりの中で灰が舞い落ちてきた。燃えさしに兵器の図面のようなものがあった。後から死の灰だと聞いた。翌日、駅に止まった貨物列車のドアが開いており、ひどいやけどを負った人が大勢寝かされ、うめき声をあげていた。悲惨な光景だった。
 11日、長崎の家を見に行こうと親に連れられ、汽車に乗り、道ノ尾駅から歩いた。家は跡形もなく、行方不明者情報を頼りに親戚を捜し回ったが、8人は即死、うち6人は遺体さえ見つからなかった。理髪店を営んでいたおじは、外傷はなかったが9月に原爆症で亡くなった。父は9月に職場復帰したが、77年に膵臓(すいぞう)がんで亡くなった。
 戦後、自宅の跡に簡易な家を建てたが隙間風がひどいため喜々津村に戻り、旧兵舎を利用した住まいで食べ物を分け合って暮らした。被災者や大陸からの引き揚げ者などが多く身を寄せており、村人から差別された。成績で見返してやろうと歯を食いしばって勉強し、高校は当時、難関とされた進学校へ入学した。
 原爆症の恐ろしさを嫌というほど見せつけられ、自分もいつか病気になるのではと恐怖は尽きない。被爆したことを話せずにいたが、2010年に長崎市内の慰霊祭で被爆者の故谷口稜曄(すみてる)さん(17年に90歳で死去)の話を聞き、体験を平和活動に生かしていかなければと考えが変わった。
 17年から長崎平和推進協会継承部会員として被爆体験講話を続けている。真剣に耳を傾け、積極的に質問してくる学生の姿に、話してよかったと思う。近年では米国など海外の小中高生からの申し込みもあり、希望を感じている。時間はかかるが、世界平和実現のため、力を尽くしていきたい。

◎私の願い

 原爆に遭いながら今も支援を受けられない人が大勢いる。被爆者としてできるだけ支援してほしい。世界平和のために戦争は絶対にしてはいけない。国は戦争をしない体制を築き、核兵器の禁止・廃止のため力を尽くしてほしい。

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