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緒方チエ子さん(90)
被爆当時14歳 浪平国民学校高等科2年 爆心地から4.3キロの南山手町で被爆

私の被爆ノート

市内一面 火の海に

2021年11月25日 掲載
緒方チエ子さん(90) 被爆当時14歳 浪平国民学校高等科2年 爆心地から4.3キロの南山手町で被爆

 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年は10歳。大浦天主堂近くの洋館で暮らしていた。それまでは、間借りしていたロシア人や英国人と一緒に遊んだり料理を作ったり楽しい日々だった。そんな穏やかな日常が戦争で一変。服はスカートからもんぺになり、外国人はいつの間にかいなくなっていた。
 45年になると空襲はひどくなる一方。通っていた浪平国民学校の近くに軍の施設があり、登校中に機銃掃射に遭って側溝に逃げたこともあった。夜は空襲に備えて近くの防空壕(ごう)に家族で避難し、寝泊まりしていた。
 8月9日。何事もなく朝が来て、母は食事の準備のため自宅へ戻った。私は1歳半の妹を背負い、7歳と4歳の弟と防空壕外の木の下に座り、ほっとひと息ついていた。
 午前11時ごろ、上の弟が弁当を取りに行き、ふと空を見上げると、飛行機と二つの落下傘が見えた。「いつもは飛行機だけなのに」。違和感を覚え、とっさに防空壕に駆け込んだ。下の弟は近所のお年寄りが連れてきてくれた。後ろから数人入ってきたとき、聞いたこともない爆音が響いた。恐ろしくて振り返ることもできなかった。誰かが言った。「広島に落ちた爆弾(と同じ)かもしれん」
 夕方5時ごろ、ようやく外に出てみると、高台から見渡せる市内一面が火の海に。正面に見えた建物から次々とれんがが崩れ落ちていた。家に帰ると母は無事。父も勤務先で難を逃れ、上の弟も大きなけがはなかった。翌日、長与の職場から線路伝いに16歳の姉が帰ってきた。「真っ黒に焼けた人たちから『水をくれ』と言われても何もできなかった」と泣いていた。
 15日の玉音放送で終戦を知り「もう逃げんでよか」と思った。父の故郷の佐賀・嬉野に引っ越すことになり、17日の夜明け前、長崎駅へ向けて焼け野原を歩いた。出島、大波止と進むにつれ、がれきが散乱。黒焦げになった馬がまだ転がっていた。何とも言えないにおいが漂い、無数のカラスの鳴き声が響いていた。
 3年後、結婚を機に長崎に戻った。戦後75年の昨年は千羽鶴を5千羽折って県外の妹や娘の家に送り、自宅の仏間に飾った。あのとき、少しでも防空壕に入るのが遅れていたら、どうなっていたか分からない。両親や周りの支えのおかげで、この年まで生かしてもらった。感謝を込めて。(丸田理恵)

◎私の願い

 核廃絶の思いは、あの日からずっと胸に抱いている。あんな恐ろしい体験を、孫、ひ孫の世代にさせたくない。今も国外の難民のニュースを見るたび、逃げ続けた戦時中を思い出し、胸が痛む。戦争のない平和な世界になるよう祈っている。

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