上野泰之さん(80)
被爆当時4歳 爆心地から6.2キロの時津村浜田郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

夜になると うめき声

2021年10月28日 掲載
上野泰之さん(80) 被爆当時4歳 爆心地から6.2キロの時津村浜田郷(当時)で被爆

 当時は長崎市西坂町の実家から、時津村にある母方の祖父母の元へ、両親ときょうだいの一家7人で疎開していた。4歳8カ月だった。よく覚えているなと言われるが、普通の生活では絶対あり得ない体験だったので記憶にとどまっているのだと思う。
 1945年6月中旬までは西坂にいた。米軍の戦闘機が長崎駅を目標に攻撃するようになっていた。自宅は丘の上にあった。何も分からず、低空で突っ込んでくる米機パイロットに手を振ると、相手も振って返したことを覚えている。長崎駅近くの家では子どもたちがいよいよ危ないと、時津に引っ越したのだ。
 あの日は私と兄も含め近所の子どもたちが集まって家の前の道路で遊んでいた。空の青い、暑い日だった。駆けっこや鬼ごっこをしていたと思う。
 「バーン」と大きい雷のような音が聞こえた。しばらくしてから爆風が襲った。やけどをするような熱風ではなかったが、小さかった私の体は10メートルぐらい吹き飛ばされた。気付くと砂利道の上に突っ込み、両肘と膝に擦り傷を負った。ピカッという原爆の光は覚えていない。
 祖父母の家は萬行寺という寺の入り口付近にあった。寺の下には防空壕(ごう)が2カ所あり、近所の人も逃げ込んでいた。そこで「赤チン」を塗ってもらい、ぼろ布を包帯代わりに巻いてもらった。泣いた覚えはないが痛かったと思う。
 その日の夕方ぐらいから、市内で被爆した人たちが車やリヤカー、馬車で萬行寺に運び込まれるようになった。寺の入り口で下ろされ、寺の坂道を戸板に載せられ運ばれていった。何十人来たのか、境内にむしろを敷いて寝かされていたと聞いた。
 痛さに泣きながら坂を上る人、水を求める人。子どもでも、ひどいけがを負っていることは分かった。夜になると「痛い」という泣き声、うめき声が坂の下まで聞こえてきた。お寺の方が気になっていた私に対し、祖父は見せたくなかったのだろう。「泣き声を聞いたからといって上るなよ」と言い聞かせた。
 夏場は薄着で顔や体をやけどした人が多かった。1週間もすると次々に亡くなったようだった。その人たちは近くの山の斜面に埋葬され、角柱に名前などを記した墓標が立った。身元が分かった人は後に家族が引き取りに来たらしい。

◎私の願い

 子も親も、かわいそうな目に遭う戦争は絶対にしてはならない。核の開発や使用はもっての外。一人一人が真剣に、戦争のない世の中をどうつくるか考えることが大切だろう。今も世界のあちこちで戦争が絶えない。「平和は当たり前」とは思わない方がいい。

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