長与国民学校の3年生で、西彼長与村高田郷(当時)に祖母と2人で住んでいた。
8月9日は夏休みでとにかく天気が良く、外で遊んでいた。家に戻ろうと玄関に入ったとき、ピカっと稲妻のような強い光線が走り、すぐに周りが暗くなった。あまりの暗さに瞬時に「死ぬ」と悟り、間もなく音と爆風があった。
暗くなった時のことはいまだに忘れられない。今思うと一瞬の暗さは、きのこ雲の下にいたからだろうが、当時はきのこ雲など分からない。ただただ暗さが恐ろしかった。
家に入ると、たんすが倒れ、壁が傾いていた。床下から爆風が吹き上げたのか、畳が剥がれ、かやぶきの屋根も吹き飛ばされていた。「多分死ぬ。逃げても一緒」。祖母と言葉を交わしたわけではないが、互いにそう判断し、避難せず家にいた。
自宅は現在の浦上水源池近くにあり、周辺の家は燃えなかったが、道ノ尾駅から1キロ足らずの集落数十軒のうち、かやぶき屋根の14世帯ほどが燃えたと記憶している。一方で死者はいなかった。この地域が山陰だったからだろう。
原爆投下から1時間ほどたった後から肩を膿(う)んだ人、服が燃えた人、髪が縮れた人などけがをした見ず知らずの人たちが、住吉方面から次々に家の前を通っていった。安全な場所を求めて歩いて逃げてきたのだろう。あまり思い出したくないが、見るも無残だったことを覚えている。
特に印象に残っているのは小さな女の子を連れて歩く知人の姿。知人は近所に住み、よく話す間柄で、そのときは「ひどかったね」くらいの言葉を交わしただろうか。はっきりと覚えてはいないが、少女と一緒だったことがとても印象深い。
少女は自分より年下とみられ、衣類は焼け、髪も燃えて縮れていた。2人が顔見知りだったのか、なぜ一緒にいたのかは分からない。思い返すと、幼いながらに誰かにすがりたいと思ったのではないか。
相当な数の人が通ったため、知人と一緒でなければ少女は目に付かなかっただろう。その後、2人がどこへ向かったのか、少女が無事なのかは分からない。
10月ごろ、髪を手でとくと抜けるようになった。3分の1ほど抜けたのではないだろうか。それが唯一、原爆に起因すると考えられる被害。その後は特段、原爆を原因とした病気にはなっていない。
<私の願い>
原爆は地球上のありとあらゆるものを壊す、無差別で恐ろしいもの。二度とあってはならない。難民の報道でボロボロの服を着た子どもたちが映し出されると、当時の生活を思い出す。改めて一日も早く平和な世の中になってほしいと思う。