稲佐山中腹の防空壕(ごう)に向かう山道を登りながら、ふと8日前(8月1日)の空襲を思い出した。空襲警報が鳴り、妹をおんぶして、壕に向かっていると、2機の戦闘機が上空で撃ち合いを始めた。初めて見る空中戦。畑近くの草むらに逃げ込み、助かった。そのすぐ近くに爆弾が落ち、親子連れが亡くなった。赤黒い肉の塊が脳裏に焼き付いている。母と妹はこの空襲を受けて、諫早市に疎開した。
そんなことを思い出しながら、壕にたどり着いた。壕内では顔なじみの人たちが思い思いに話していたが、自分には誰も話し掛けてこなかった。みんな自分のことで精いっぱいなのだ。さみしい気持ちでいると、奥から父親の声がした。私を待ちわびていたのだと思うが、何を話したかは覚えていない。何も話すことはなかったかもしれない。
それから数時間、町のあちこちで火柱が上がるのを見ていた。暗くなっても火の手は止まらず、夜空を真っ赤に染めていた。港の向こう側に西坂国民学校の校舎が炎を上げて崩れ落ちるのが見えた。
誰かが「広島に落ちた新型爆弾と同じものだ」と言っているのが聞こえた。米国はこれほど恐ろしい爆弾ができる科学力なのだろうか。戦争は続くのか。日本は勝てるのか。もう勝てないような気がする。そうすると日本人はどうなるのだろう。想像すると不安で押しつぶされそうだった。
幼い子どもたちは泣き疲れて寝息を立てていた。大人たちの会話もやがて途切れた。自分もそのうち眠ったらしい。目を覚ますと朝になっていた。まだ空気がよどんでいる。壕内ではまたうわさ話が始まった。「そのうち沖縄のように長崎にも米兵が上陸する」「男は皆殺し、女は助かるかもしれんが、若い娘さんはさらわれるばい」「はよ逃げたがよか」。うわさが広がり、壕内はパニックのようになってきた。
午前8時ごろ、爆心地近く三菱重工長崎兵器製作所で働いていた兄が壕にたどり着いた。一日中さまよい歩いていたという。家族が無事にそろい、父は母たちが疎開している諫早に逃げると決めた。体も衣服も汚れ、惨めな格好だったが、とにかく浦上駅の方面に向かって歩く。
稲佐橋に差しかかると、人や馬が道路脇で死に、路面電車の車両やトラックが焼け残っているのを見た。
1118回に続く