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野村貞之さん(92)
被爆当時16歳 長崎市立商業学校2年生 爆心地から3.2キロの飽の浦町2丁目で被爆

私の被爆ノート

古里消えたと悟る

2021年6月17日 掲載
野村貞之さん(92) 被爆当時16歳 長崎市立商業学校2年生 爆心地から3.2キロの飽の浦町2丁目で被爆

 長崎市飽の浦町の三菱重工業長崎造船所へ動員され、配船係をしていた。当時、岩川町から深堀に疎開しており、あの日もいつも通り午前8時には出勤し、事務所にいた。
 午前11時2分。開け放った窓から突然、生ぬるい爆風が吹き荒れた。机の上の弁当箱は吹っ飛んだ。私たちはとっさにしゃがみ込んで風をよけた。風がやむと、一目散に事務所のトイレへ向かい、窓から建物を抜け出した。「近くに何か落ちた」「風船爆弾ぞ」。口々に言い合いながら裏山へ駆け上がった。
 夕方になり、歩いて深堀の自宅へ向かった。稲佐橋を東へ渡りながら浦上方面を眺めると、煙がもうもうと上がっていた。自宅に帰ると、近所では「浦上に爆弾の落ちたらしか」と話題だった。気が気でなかった。なぜならこの年の春まで家族で浦上地区に住んでいたからだ。
 かつて、浦上駅周辺は荷馬車がさかんに行き交うにぎやかな場所だった。岩川町の実家へは駅から約3分。周囲は民家のほかに材木屋やクリーニング店など商店が立ち並んでいた。山王神社の近くにはいけす料理屋があり、川にウナギが逃げ出す騒ぎもあった。浜口には野菜市場があり、兄はその近くで売っていたかす巻が好物だった。近所の八百屋の子どもらとはビー玉遊びをしたものだ-。
 「昔おった人たちは大丈夫やろか。一目会いたか」。ご近所さんや幼なじみの消息を確かめるため、翌日以降、深堀から浦上を目指した。炎に包まれた江戸町の県庁舎を横目に市街地を歩いて北上した。
 だが、長崎駅までたどり着いて驚いた。そこから先、道路が消え、家も何もかもなくなってしまっていた。何かが焼ける臭いが鼻を突いた。この時、古里が消えたことを悟った。「これでは到底探すことはできない」と思った。そして「日本は戦争に負けた。焼け野原に米兵が上陸して皆殺しにされる」と考えながら、深堀へ引き返した。
 終戦後、学校が再開し、大橋の兵器工場へ動員された生徒が多く亡くなったことを知った。山里国民学校時代の同級生が電車の中で息絶えたことも聞いた。そのうち「浦上には爆風のせいで70年も草木が生えない」とか、「浦上に行けば髪が抜ける」などと言われるようになった。
 被爆から76年がたとうとする今も、ご近所さんや幼なじみの消息は分かっていない。

◎私の願い

 戦争だけはしてはいけない。あのころは物資がなくいつも空腹で、みじめな生活をしていた。だが、今も世界で苦しんでいる国がある。餓死(がし)する子どもを思えば、飢えていた気持ちを思い出す。先進国は何かできないのだろうか。

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