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北村 正人(84)
北村正人さん(84)=福岡市=
被爆当時12歳 長崎市立商業学校1年
入市被爆

私の被爆ノート

自宅跡に養母の白骨

2017年11月23日 掲載
北村 正人(84) 北村正人さん(84)=福岡市=
被爆当時12歳 長崎市立商業学校1年
入市被爆

 父の兄夫婦に子どもがいなかったので、次男の私は生まれてすぐに養子になった。あの日は長崎市山里町に養母と2人で暮らし、隣の家に実母ときょうだい4人の計5人が住んでいた。実父と養父は既に亡くなっていた。
 朝、養母に「いってらっしゃい」と見送られ、学徒動員先の茂木にある「こしき岩」という小山に向かった。これが家族と交わす最後の会話になると知らずに。
 同級生と一緒に日本軍の陣地構築のため穴を掘っていた時、ピカッと強い閃光(せんこう)が視界に飛び込み、間もなく強烈な爆風が体を襲った。「何が起こったんだ」。周囲が騒然とする中、黒い燃えかすのようなものが飛んできた。作業の指導に当たっていた兵士から「長崎市内で大変なことが起こった」とだけ聞かされた。
 「養母は無事だろうか」。帰宅命令を受け、はやる気持ちを抑えて西山を山伝いに爆心地の方を目指していると、髪がちぢれ顔や体の皮膚がただれた人たちが、ふらふらと歩いてきた。黒焦げになったり赤く腫れ上がったりした死体が道に転がっているのも見えてきた。
 穴弘法の山を越え路面電車の浜口町電停まで来た時、足の裏に痛みを感じた。強烈な熱線がアスファルトの道路に浸透し、靴底を通り越して熱が伝わってじんじんとしていたのだ。自宅に続く坂道はいかにも熱そうだったが、がれきで覆われた路面電車の軌道の上はそこまでなかった。家に帰るのを諦め、軌道上を歩いて油木町の商業学校に向かった。
 死体が点々と転がる爆心地付近を抜けて夕方ごろ学校にたどり着くと、校舎は窓から火が噴き出て燃えていた。その光景をぼうぜんとながめていると、学校に駐屯していた兵士が心配して「行くところがないなら一緒に来い」と誘ってくれ、寝場所として学校の裏山の茂みに隠してあったトラックに連れていってくれた。養母の無事を願いながら一夜を明かした。
 翌朝、再び自宅へ向かった。一帯は爆風と熱線で建物が一切なかったが、自宅の玄関先にあったコンクリート製の防火水槽は残っていたため、自宅跡だと分かった。そこには養母のものと思われる白骨が積もっていた。実母ときょうだい計5人が住む隣の家も跡形は残っていなかった。ここにも骨の山が五つあった。たった1発の原爆で家族全員を失った。

<私の願い>

 今年8月に初めて福岡市内にある小学校の児童に被爆体験の講話をしたが、原爆になじみがないためか、うまく伝わっていないような印象を受けた。被爆の実相を継承する活動を続けて、未来を担う子どもたちに核兵器の脅威を伝えたい。

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