被爆当時18歳 日本交通公社勤務
爆心地から2.3キロの長崎市尾上町で被爆
長崎市の諏訪神社近くで路面電車の定期券を買うため、長崎駅前にあった勤め先の日本交通公社を出た。近くの電停付近で上空を見上げると、B29が1機飛んでいた。
次の瞬間、何が起きたのか分からないまま爆風で吹き飛ばされ、気がつくと煙の中だった。黒いはずの煙は虹色のように見えた。黄リン焼夷(しょうい)弾が爆発したのかと思ったが、首、両手、背中、足の5カ所を熱線でやけどしていた。痛かったが、ガラスやがれきが散乱する道を夢中で歩いて、近くの防空壕(ごう)まで逃げた。火の手が迫る中、知り合いの憲兵がいる立山方向へ向かった。そこで2日間泊めてもらい手当を受けた。
橋口町の自宅が気になったが、憲兵は「代わりに見てくる。大丈夫」とだけしか言わなかった。多分、私に余計な心配をさせたくなかったのだろう。
11日、母の実家がある北高小江村(当時)を目指した。道ノ尾駅まで歩いた道中はおびただしい数の遺体と馬の死体で地獄だった。浦上川には、やけどで顔が黒く腫れ上がった人たちがたくさんいた。遺体を見ても何も感じなかったが、まだ生きている人に「水を下さい」と声を掛けられるのが一番恐ろしかった。小江駅まで汽車に乗ったが、けが人でぎゅうぎゅう詰めだった。
母の実家にたどり着くと、2歳下の弟に幽霊だと言われた。先に避難した弟は原爆投下直後に長崎駅前を通ったので、私は死んでいると思っていたようだ。大けがをしていた父は16日の朝、苦しみながら亡くなった。息を引き取った後、体が紫色になったのを覚えている。その後は親戚を頼って佐世保市に移った。やけどした傷口にカキの葉を煎じたものを塗ってもなかなか治らなかった。弟が病院に入院したので看病していたが、私も原因不明の体調不良と、貧血でフラフラしていた。体調不良は何年も続いた。
23歳で結婚した。夫の仕事で北海道、東京と移り住み、東京で約5年間、大手金融機関に勤めた。試験と面接は合格だったのに、身上調査で一度は不合格となった。理由を聞くと被爆者だからという。抗議して結果的に採用されたが、差別だった。体調が悪くても意地になって仕事を頑張った。被爆者健康手帳を取得したのは1968年。大村市に引っ越し、弟に教えてもらうまで手帳の存在を知らなかった。
<私の願い>
人間は一人では生きられない。本当にたくさんの人の温かさに恵まれて平和が身に染みている。恒久平和の実現には心の平和しかない。県外に行くと長崎と広島以外は原爆への関心が薄い。だけど今も恨みつらみは言いたくない。運命だから。