被爆当時7歳 佐古国民学校2年
爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆
あの日もいつも通り、自宅から自転車で通勤していった父。勤務先の三菱長崎造船所幸町工場で被爆し、そのまま帰らぬ人となった。まだ33歳だった。社交的でギターが好きなハイカラな人柄で、休みの日には茂木へビワ狩りに連れて行ってくれた。
私は幼い妹を背負った母に手を引かれ、自宅そばの階段を下っていた。近くの幼稚園へ、2人の弟を迎えに行っていたのだと思う。歩いていると突然、目の前がピカッと光り、次の瞬間、ドーンととてつもなく大きな音が響いた。
母に覆いかぶさられるようにして、その場にしゃがみ込んだ。幸い爆風は感じずけがもなかったが、何が起こったのかよく分からない。急いで自宅へ戻った。浦上方面で煙がもうもうと立ち込めるのが見え、大人たちは「大変なことになった」と話していた。
父は、しばらくたっても帰って来なかった。数日後、母と祖父が工場へ向かい、「父の遺骨」を持ち帰ってきた。工場には骨や死体がいくつも散らばっていて、どれが誰の骨か、見当もつかない状態だったという。母は父がいたであろう場所から、手のひらにのるほどの骨を選んだ。
母は骨を骨つぼに入れ、箱にしまい、線香を上げて手を合わせた。「これが、お父さんやけんね」。父にはもう会えないんだと、幼いなりに受け止めた。弟たちも、だまって聞いていた。
9月、父方の実家がある熊本県の天草へ疎開した。広島で被爆した親戚も集まっていた。農家だったので食べ物には困らなかった。父の幼少期を知る人たちからは「あんたが息子さんやろ。よう似とる」と声を掛けてもらい、うれしかった。
疎開から約1年後に下の弟が、その半年後に妹が、立て続けに亡くなった。被爆の影響かどうか分からないが、脳炎のようなものだったと思う。当時は衛生環境も悪く、原因不明の病で死んでいく人も多かった。今の時代だったら助かったのではないかと悔やまれる。5年生のころ、再び長崎に戻った。
後に母から聞いた話では、父はいつも昼前に自宅に戻って昼食を取っていたそうだ。しかしあの日は、見張りの当番で職場にいた。母は悔やんでいたが、優しい父のことだから、自分だけ生き残っても手放しで喜びはしなかっただろう。「あの日に限って」で助かった命も、失われた命も、たくさんあった。
<私の願い>
世界中のリーダーのみなさんへ。人間が殺し合う戦争は、絶対にやめてください。今世界中で保有されている核爆弾は、地球上の生命、自然全てを破壊することが可能だそうです。核兵器を「使わない」という英知を持ってください。