被爆当時19歳 三菱長崎兵器製作所大橋工場勤務
爆心地から1.1キロの長崎市大橋町で被爆
あの日は午前7時半ごろから工場で働き、8時前に警戒警報が鳴り、その後、空襲警報に変わった。三菱兵器住吉トンネル工場に避難することになっていたが、遠かったので、動員されていた瓊浦中の生徒と2人で近くの本原方面に逃げた。警報が解除されたので職場に戻った。
この日は午前11時40分ごろから食券を工員に売る当番で、早めに昼食を取ろうと思っていた。梨を10個くらい持ってきており、動員されていた生徒5人を誘って、一緒に食べようと技術部棟の地下室に行った。だが皮をむくナイフを忘れ、朝一緒に逃げた生徒が取りに行った。
数分後。強烈な爆風に吹き飛ばされ、服もすべてはぎ取られてしまったが、右足のふくらはぎにかすり傷を負った程度だった。開いている扉付近に真っ赤な砂煙のようなものが現れ、火が落ちてきたように見えた。上の階で、作っていた爆弾か何かが爆発したのかと思った。
こっそり梨を食べようとしていた後ろめたさから、地下室から出ることができず、誰かが捜しに来るのを待っていた。しかし誰も来なかったため、梨を包んでいた風呂敷を体に巻いて、外へ出た。
所属する厚生課の入った木造平屋へ向かったが、そこがどういう状態だったか記憶にない。被害が少ない方に逃げようと、建物が残っている方向を見渡すと、近くに純心高等女学校があった。女学校に向かい、入り口近くに体操服が入った袋が掛けられていたのを見つけ、それを着ることにした。
山の方へ歩いていると、工場の別の課の上司に会った。私の自宅は寄合町、上司の家は伊良林で同じ方向だったので、一緒に山越えして帰ることにした。途中、私と上司のそれぞれの知人にも会い10人くらいで歩いた。上司にけがはなかったが、かなり弱っており、誰かが民家から取ってきた畳に寝せて、数人で運んだ。上司を自宅に連れ帰ると、奥さんから「よう連れてきてくれた。ゆっくりしていって」と感謝された。炊きたてのご飯でおにぎりを作ってくれ、被爆後、初めて休むことができた。
私も帰宅すると、両親や祖父母が「よう帰ってきた」と痛いほど抱き締めてくれた。だが家に帰りたい一心だったので、いったい長崎で何が起こったのかまだ理解していなかった。
<私の願い>
戦争と核兵器に反対。1発の原子爆弾ですべてが失われることは分かっているはず。核兵器禁止条約に日本は署名していないが、戦争被爆国なので真っ先に核廃絶を訴えなければならない。世界中の人々が互いに助け合い生きていってほしい。