被爆当時15歳 旧制鎮西学院中3年
爆心地から2.5キロの長崎市平戸小屋町で被爆
戦況が厳しくなるにつれ、学校の授業はほとんど行われなくなった。学校に常駐していた日本軍の少尉から、銃を手に行進をしたり、ほふく前進をしたりする指導を受けた。銃の弾は抜いてあったが、「村田銃」という本物だった。食べ物はなく、大豆の搾りかすをよく食べていた。
3年生になると、学徒動員で平戸小屋町の三菱電機長崎製作所に通い、飛行機の部品を作っていた。あの日もいつも通り、浪の平町の自宅から大波止まで歩き、船に乗って出勤。爆撃に備え、工場内の機材を別の場所へ移動させるため、梱包(こんぽう)作業をしていた。
その後、工場で早めの昼食を取っていた。突然、窓の外がピカッと白く光り、ごう音が響いた。近くに、何か大きな爆弾が落ちたのかと思ったが、まさか原子爆弾だったとは。
この日は学校で缶詰の配給があるから取りに行くよう、数日前に通達があったが、行かなかった。理由は覚えていない。学校は、爆心地から500メートルの竹の久保町(現宝栄町)。今思えば、虫の知らせだったのかもしれない。
工場の外は粉じんが舞い上がり、前がよく見えない中、近くの防空壕(ごう)を目指して走った。壕の中には、50人以上はいただろうか。すし詰め状態で、ひどいやけどを負った人が大勢いた。
数時間後、帰宅しようと壕を出ると、視界に入ってきたのは、ごみと煙、燃えた家々ばかり。海岸通りを歩いて稲佐橋にたどり着くと、軍人から「この先は危険だから通れない」と言われ、引き返した。この軍人の服は焼け焦げ、ぼろぼろだった。旭町から船が出ていたので大波止に渡った。船には、けがをした人たちもたくさん乗っていた。自宅では祖母がほっとした表情で「無事やったか」と迎えてくれた。
2歳上の姉は茂里町の三菱兵器製作所茂里町工場、5歳上の姉は、飽の浦町の三菱長崎造船所で被爆。その日の夜に2人とも帰宅し、大きなけがもなく安心していた。しかし、2歳上の姉は原爆から約1カ月後、5歳上の姉はその49日後、それぞれ原因不明の高熱で亡くなった。2人の遺体は、それぞれ材木を集め、トタン板の上で焼いた。
2人の体には傷一つなかったが、放射線に体がむしばまれたのだろう。「自分もいつ死ぬか分からない」という不安は、大人になってからも続いた。
<私の願い>
終戦後、諫早市に移転した鎮西学院中を卒業し、長崎市内の染め物店で50年以上働いた。60代のころから山登りを始め、友人もたくさんできた。頂上からの眺めは疲れも吹き飛ぶほどすがすがしい。この平和な景色がいつまでも続いてほしい。