当時は毎日のように、朝も夜も関係なく、米軍機の編隊が上空を飛んでいた。そんな状況でも大人たちは「滑石地区には大神宮があるから、攻撃も爆撃もない」と話していたので、不思議と怖くはなかった。飛行機の音がすると庭に飛び出して、空を見上げて手を振っていた。
あの日は空襲警報が出たので山に避難したが、解除されたので自宅に戻った。浜口町から1人で疎開していた父方の叔母は、空襲の被害がないか確認をしに浜口町へ向かった。いつもの日常だった。
お盆を前に、先祖の墓に置く花立てを作るため、滑石町にあった自宅の軒先で祖父と竹を切っていた。突然の閃(せん)光(こう)。目がくらみ、体ごと吹き飛ばされた。積んでいた竹材も家の障子も爆風で吹き飛び、畳はめくれ上がり、納屋もめちゃくちゃに。樹齢300年といわれた庭のシイの木は、一部が焼け焦げていた。
夕方になっても戻らない叔母を捜しに、祖父と一緒に浜口町に向かった。道ノ尾駅付近まで歩くと傾いた電柱やくすぶる木材、がれきが道をふさいでいた。駅周辺には負傷者が座り込み、熱気と異様な臭気。それは爆心地に近づくにつれて強くなった。顔や腕の皮膚がただれ、夢遊病者のように歩いている人もいた。
大橋付近まで進むと、ほとんどの家が焼き尽くされていた。川には何十人という重傷者が折り重なり、顔が判別できないほどただれた人も。悪夢のような光景だった。祖父は涙を流し、先へ進むことを断念した。
自宅に戻る途中、学徒動員先の三菱兵器工場で働いていた近所のいとこが、橋の近くに座り込んでいた。体中にガラス片が刺さり、うめき声を上げて苦しんでいる。誰かが指示をしたのだろう、近くにいた子どもたち数人が集まり、いとこをたらいに座らせ、水をかけながらガラス片を抜き取った。私も無我夢中で抜いた。
たらいの中の水は見る見るうちに赤く、どす黒く染まった。全て抜き終えたころ、いとこはぐったりと息絶えていた。今思えば、ガラスを抜いたことによる出血多量だったのかもしれない。当時は応急処置の知識もなく、必死だった。いつも豪快で、明るいお兄さんだった。状況がよく理解できず、ショックで言葉を失った。叔母もついに見つからなかった。あの日の強烈な光景は、生涯忘れることはないだろう。
◎私の願い
シリアなどで今も続いている内戦、紛争、避難民の苦しみを思うと、被爆当時と重なり残念でならない。世界平和は人類共通の願いで、互いに信頼し合う人間関係が大切。親が子どもを虐待するニュースなどを見ると、悲しい。