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岩永義信さん(79)
被爆当時3歳 爆心地から2.7キロの長崎市下西山町で被爆

私の被爆ノート

差別を心配した父

2021年3月4日 掲載
岩永義信さん(79) 被爆当時3歳 爆心地から2.7キロの長崎市下西山町で被爆

 当時、実家は長崎市下西山町で酒屋を営んでいた。両親と8歳上の姉との4人暮らし。幼かったため原爆が投下された日のことは覚えていないが、防空頭巾をかぶり、薄暗い防空壕(ごう)に入っていた記憶がある。
 勤務先だった茂里町の三菱長崎製鋼所で被爆した父は、爆風で飛び散ったガラスか何かで頭を切り、後頭部に長さ5センチくらいの縫い傷が残った。生涯、消えることのない傷跡だった。
 被爆から間もなく、父の実家があった南高山田村(現在の雲仙市吾妻町)に家族で逃れた。家財と一緒に荷馬車に乗って、揺られながらの引っ越しだった。
 戦後、暮らしは一変した。父は農家になり、荒れ地を耕して米や麦を育てた。生活は苦しかった。姉は中学卒業後、大阪に働きに出た。私も中学卒業後は父を手伝った。長男の自分が残って、両親を支え、老後の面倒まで見るしかないと覚悟を決めていた。農業を継ぐしかなく、何か別の仕事に就きたいなどと考える余裕もなかった。
 その頃、手動のバリカンで父の頭を散髪することが私の役目だった。刈るたびに、父の後頭部の縫い傷があらわになった。だが、父が原爆のことを口にすることはなかった。家族以外、周囲に被爆者はおらず、あえて口外したくなかったのではないか。
 父は1967年に63歳で他界するまで、家族の分も含めて被爆者健康手帳の交付申請をしなかった。手帳を持つことで、大阪で暮らしていた姉が被爆者だと知られて結婚差別に遭うのではないかと、心配していたのだと思う。私たち家族が手帳を取得したのは父の死後の75年だった。
 もし、長崎に原爆が落とされていなかったら、どんな人生だっただろう。両親はつらい開墾をせずに酒屋を続けていたのではないか。被爆者への差別の心配もしなくてすんだんじゃないか。姉も私も進学できたんじゃないか。ふと、そう思うことがある。
 今は、県原爆被爆者島原半島連合会の吾妻支部長を務めている。地区内の会員は40人余り。人の人生を狂わせる戦争を繰り返してはならないと強く思う。一方で、私のように幼くして被爆した人たちは記憶があいまいで、高齢の会員は外出できなくなっていたり、福祉施設に入ったりしていて、継承が年々難しくなっているのが現状だ。

 

◎私の願い

 私は長崎市を訪れる際にはできるだけ長崎原爆資料館を見学し、自身にない記憶を補ってきた。若い世代にも被爆の実相を学んでほしいが、本人が関心を持っていないと心に残らない。平和の尊さについて考える機会を多く持ってほしい。

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