長与村青年学校(当時)に通っていた。実家は長与の東高田にあり、畑があったので食べ物には困らなかった。学校以外はほとんどイモ作りなどの農作業を手伝っていた。
8月9日は、空襲警報が鳴っていたのに母と私はなめてかかっていた。「落ちてこんさ。上がろうか」と高台にある畑に向かった。だが他には誰も来ておらず、私と母の2人だけだった。
草取りを始めたところで、空いっぱい浮遊しているものに気付いた。白い棒状だったと思う。黙って見ていると突然、目がじりっとして、火が入ったような感じがした。気付くと、畑に立っていた私は吹き飛ばされ、横向きに倒れていた。それが原爆だった。
母はイモ釜にいて難を逃れ、幸い私もけがはなかった。辺りは真っ暗になり、高台だったのであちこちで火事になっているのが分かった。「帰っても家はなかかもしれんよ」。弱音を吐く母に私は「ここにいてどうすると」と言った。結局、午後3時ごろに畑を下ると、途中、道端の草も焼けていた。
実家は倒壊は免れたが、中の障子やふすまは倒れ、ボロボロになって押し入れから布団が飛び出ていた。時津の農協に勤めていた父は夕方帰宅。家の中にいた姉や妹弟たちは無事だった。
そこへ、原爆で負傷した母方の叔父家族が長崎市内から歩いて避難してきた。叔父は出征していて、留守を預かる叔母と、その3人の子どもだった。叔母は腕の骨を折り、4年生だった長男は体中やけどをしているのに、3歳の弟を背負い歩いてきたようだった。あれが真の兄弟の姿だろう。だが男の子3人は次々と死亡し、叔母もその後亡くなった。原爆前に実家に避難してきていればと悔やまれる。
臨時救護所となった長与国民学校(現在の町立長与小)には被爆直後から負傷者が多数運び込まれた。いつだったか1日だけ私も看病の手伝いに行ったが、講堂や教室には手や足のない人、背中にウジがわいている人もいて恐ろしかった。
その中に全身にやけどを負いながら出産した女性もいた。廊下に寝かせられた赤ちゃんにやけどはなかったが、指で押さえたような白っぽい斑点が胸や手足にあった。女性はあのやけどでお産もしたとは、さぞ苦しかっただろう。ミルクも行き届かない状況で親子がどうなったのか知る由もない。
◎私の願い
原爆で私の周りでも次から次へと人が亡くなっていった。被爆した町も建物も、すっかり元通りになるまでには相当な時間がかかった。あんな恐ろしいことはないし、今では想像も付かないだろう。原爆は哀れ。二度とあってはならない。