父は出征し、祖父母と母、生後10カ月になる妹の5人で、山際にある上西山町に住んでいた。
8月9日。朝から暑さが厳しく、パンツ1枚の格好で、祖母と、畳の上に寝かせた妹と窓際で涼んでいた。母は台所で昼食のそうめんをゆでていた。
突然、ピカーッとものすごい光が目を突き刺し、ドーンという音が耳をつんざいた。茶の間のガラス戸が吹き飛び、部屋に破片が飛び散った。台所にいた母が「耳は大丈夫か」と幼い妹の元に叫びながら駆け付けた。声に反応して泣いたので、聞こえていると分かった。
夕方の光景は今でも強烈に覚えている。皮膚がめくれた人、顔から血が出た人、髪の毛が縮れた人、裸同然の人々が足を引きずりながら、ぞろぞろと山から下りてきた。山の向こうの浦上方面で被爆したのだろう。「水をください」と苦しそうに言っていた。
大人たちは見ているだけで誰も水をあげようとしない。「かわいそう」「痛そう」-。5歳ながら、いてもたってもいられなくなった。大人から制止されたが、急いで台所へ行き、自分で運んだ椅子に乗って、水道からコップに一口、二口ばかりの水をくんで何往復かした。今でも、あの人たちがどうなったのかと思い出す。おそらく助からなかっただろう。
翌日か翌々日、祖母に連れられておばさんのお見舞いに行った。おなかはパンパンに膨れ上がり、言葉も話せずに「フー、フー」と苦しそうに息をしていた。おなかを押すと臭いガスのような臭いがした。おばさんは被爆3日目に亡くなったと聞いた。
原爆投下後、近所の諏訪神社や松森天満宮の境内には、遺体がごろごろと転がっていた。その光景が忘れられない。中島川に遊びに行くと、そこで遺体が焼かれたのか、骨がたくさんあった。
同級生の中には顔中ガラスの破片が刺さり、下まぶたの裏がむき出しの子がいた。妹は極度の貧血に苦しんだ。私も貧血で、3度の出産は全て輸血を受けた。被爆がどこまで影響するか分からず、子どもが健康に生まれるか毎回不安だった。
戦後は被爆者に対する偏見も強く「触ったらうつる」「嫁に行けなくなる」などと言われた。親も同級生も、自身の被爆体験を口にしなかった。
◎私の願い
核を使うのだけはもう二度としてほしくない。核実験も反対。戦争は死にたくない人が死んでいく。絶対にやめてほしい。せっかく不自由のない生活ができているのだから、これ以上、過度に発明しなくていい。今のままが一番いい。