山田忍さん(83)
被爆当時8歳 入市被爆

私の被爆ノート

ラムネ瓶がぐにゃり

2020年11月5日 掲載
山田忍さん(83) 被爆当時8歳 入市被爆

 長崎市船蔵町(現在の宝町)で生まれ、1年生まで城山国民学校に通っていた。三菱電機長崎製作所で働いていた父が病気で亡くなり、戦況も厳しくなってきたので母の実家がある西彼村松村(現在の長崎市琴海地区)に引っ越した。その後、母の再婚を機に西彼三重村(同三重地区)に移り住み、1945年春から畝刈国民学校に通った。
 8月9日、教室で授業を受けている時だった。窓の外がピカッと光ったかと思うと、爆風でガラスが吹き飛んだ。みんな慌てて机の下に隠れた。どのくらいの時間がたったかは覚えていない。しばらくすると先生が「急いで家に帰りなさい」と言った。腕や顔にけがをした同級生もいたが、みんな無事だった。
 自宅に帰ると、玄関の戸や障子が吹き飛んでいた。辺りを捜してみたが、父も母もいない。不安なまま待っていると、兄が学校から帰ってきた。兄と一緒に隣の家を訪ねてみると、父と母が避難していた。父の話では、爆風で吹き飛ばされた戸の下敷きになっていたところを、隣の住民に助けてもらったという。
 1週間ほどして、両親と一緒に長崎市内の様子を見に行った。途中、赤迫の道端でぐにゃりとぞうきんを絞ったようにねじ曲がったラムネ瓶を見つけた。熱線で溶けてそうなったのだろう。珍しかったので拾おうとしたら、父に「危ないから止めなさい」としかられた。
 市内はどこもがれきの山。川には馬の死骸が浮いていた。どこからか流れて来たのか、水を飲もうと下りてきて死んだのかは分からない。城山国民学校は壁が吹き飛ばされ、燃えてほとんど無くなっていた。もし、転校せずに通っていたら、私は死んでいたかもしれない。
 大人になってからは、ぜんそくや高血圧、狭心症など多くの病気に悩まされた。ただ、原爆のせいにはしたくなかった。意地というか、認めたくなかったのもある。

 当時の同級生とは今でも仲が良く、集まって食事会をするが、昔の話をすることはほとんどなくなった。2人の子どもと4人の孫に囲まれ、食べ物もなかった戦中と比べるととてもぜいたくな暮らし。孫が小学生ぐらいのころ、戦争の話を聞きに来た。平和学習の一環だったのだろう。原爆のことだけでなく、何度も空襲があったことを教えた。興味深く聞いてくれたことがうれしかった。

<私の願い>

 世界各地で国同士の争いが絶えず、それぞれ原因がある。若い人は原爆が落とされたという事実だけを学ぶのではなく、なぜ使われたのか、その後の世界はどうなったのかなど、前後の経緯までしっかり学んでほしい。

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