大串和雄さん(84)
被爆当時9歳 稲佐国民学校3年 爆心地から1キロの竹の久保町2丁目で被爆

私の被爆ノート

全ての「音」消えた

2020年10月08日 掲載
大串和雄さん(84) 被爆当時9歳 稲佐国民学校3年 爆心地から1キロの竹の久保町2丁目で被爆

 当時、稲佐国民学校3年生。両親と5人きょうだいの7人で、竹の久保町2丁目(当時)に暮らしていた。8月9日は夏休み。父と姉2人は仕事へ行き、母と弟2人と一緒に自宅で過ごしていた。
 トンボを捕まえようと、庭先に出た時。頭上からエンジン音が聞こえ、稲佐山方面から立山方面にB29が1機飛んでいくのが見えた。すると、B29が何やら黒い物体を三つほど投下したではないか。
 爆弾が落ちたと思い、隣の家にあった防火水槽の陰にとっさに身を隠した。敵機の襲来を知らせる半鐘が6回鳴り終わった瞬間、全ての「音」が聞こえなくなった。目を開けると、辺りの建物は全てなくなり、じゅうたんを敷いたように灰が一面に広がるばかり。信じられず、キツネにつままれた気分だった。
 自宅の跡から灰とがれきをかきわけ、母と弟2人を助け出した。自宅近くの梁川橋のたもとにあった二つの防空壕(ごう)は黒焦げの人でいっぱいだったので、橋の下に4人で身を寄せた。母に言われて気付いたが、私は頭をけがして背中から腰までシャツが血だらけになっていた。だが、不思議と痛みは感じなかった。
 薄暗くなり、親戚を頼ろうと松山町へ向かったが、親戚宅は跡形もなくなっていた。その後、徒歩で道ノ尾の別の親戚宅に向かったが「うちは泊められん」と追い返された。避難所だった長与国民学校の体育館に着いたのは、日付が変わって8月10日昼前のことだった。
 中には被爆してけがをした人が大勢おり、医師が代わる代わるピンセットでガラス片を取ったり、消毒液を塗ったりして処置を施していた。地元婦人会が炊き出しでおにぎりを提供していたが、頭のけがや道中で焼けた死体を多く見て、食欲はわかなかった。
 1週間ほどたって、三菱長崎兵器製作所茂里町工場で被爆した父が迎えに来た。姉2人もその後合流し、十人町にあった父の同僚宅を間借りして暮らすようになった。被爆から1カ月後。父が下痢をして寝込んだかと思うと、間もなく死んでしまった。放射能を浴びていたのだろう。
 近くに転がっていた材木をかき集め、父の遺体を雨戸に乗せて燃やした。火葬が珍しかったのか、米兵がカメラで撮影していた。でも怒りすらわかなかった。父が死んだことに何も考えられず、ただぼうぜんと炎を見つめるばかりだった。

<私の願い>

 戦後、長崎は「草木が100年生えない」と言われた。実際はそんなことはなかったが、放射線の影響は残り続ける。自分を含め、生き残った家族全員ががんに侵された。世界中で話し合い、原爆が再び使われることがないようにしてほしい。

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