荒木義次さん
荒木義次さん(84)
被爆当時9歳 南大浦国民学校4年 爆心地から4.6キロの長崎市大浦出雲町で被爆

私の被爆ノート

1週間後に父生還

2020年9月10日 掲載
荒木義次さん
荒木義次さん(84) 被爆当時9歳 南大浦国民学校4年 爆心地から4.6キロの長崎市大浦出雲町で被爆

 当時9歳で南大浦国民学校の4年生。あの日は、空襲警報が警戒警報に変わり、避難していた防空壕(ごう)から10メートルくらい離れた自宅に戻るところだった。玄関を開けて中に入ろうとした瞬間、後ろから押されたような感じで前方に飛ばされ、居間の畳にうつ伏せに倒れ込んだ。爆風を受けたのだと思うが、何が何だか分からなかった。
 起き上がり、外に出ると、見たことがない大きな雲が空いっぱいに浮かんでいた。白っぽくて、灰色がかっている。まるで風船みたいに広がっていた。雲の向こう側は見えず、「おー」と驚き、恐怖感が込み上げた。原爆のきのこ雲だったんだと思う。あの光景は今も忘れられない。
 家の中は、たんすなどの大きな家具も倒れていた。弟と2人、母に手を引っ張られ、慌てて防空壕に逃げ込んで一昼夜を過ごした。幸い3人ともけがはなかった。
 当時は大浦出雲町の長屋に、両親と弟の4人で暮らしていた。父は三菱長崎兵器製作所大橋工場で魚雷の製造に携わり、大村湾で発射試験をするため、東彼川棚町にも行っていた。夜勤も多かったため、私はよく1人で大橋まで路面電車に乗り、夕食の弁当を届けていた。乗り物が大好きで、お使いは楽しかった。
 あの日も仕事に出ていた父は、数日たっても家に戻ってこなかった。近くに住んでいた親戚らは「亡くなったとばい」と話していた。私たち家族も父は死んだのだと思い込み、半ば諦めていた。しかし、約1週間後、父は木をつえ代わりにして、足を引きずりながら戻ってきた。「お父さんが帰ってきた」とびっくりして喜び、抱きついて、しがみついた。生きて帰ってきてくれたことが本当にうれしかった。
 多くの犠牲者が出た大橋工場で、助かった人は少なかったと聞いた。父はたまたま大きな柱の近くにいたため、建物の鉄骨などの下敷きにならずに済んだという。父は「爆弾がまた落とされるかも」などと考え、大橋工場から立山方面に上り、山越えで自宅にやっとの思いでたどり着いたらしい。足を骨折しており、何も食べておらず、やせ細っていた。
 父は戦後、人が変わったように酒を飲むようになった。死に物狂いの経験をしてショックを受けたのか、やけになったのか。父や母が亡くなるまで、原爆の話をした記憶はない。

<私の願い>

 国同士が戦っても、お互いが不幸になるだけ。お互いに思いやり、助け合うことが大事だ。地球上には、まだ争っている地域がある。戦争などを起こさず、仲良く交流してほしい。世の中は平和じゃないといけない。

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