岡田仁さん
岡田仁さん(78)
被爆当時3歳 爆心地から3.3キロの長崎市鳴滝町(当時)で被爆

私の被爆ノート

町の惨状 今も頭に

2020年7月16日 掲載
岡田仁さん
岡田仁さん(78) 被爆当時3歳 爆心地から3.3キロの長崎市鳴滝町(当時)で被爆

 あの日以降の記憶は断片的だが、海軍だった叔父の苦悩を近くで聞き、感じてきた。私の根底には叔父の思いがある。
 当時3歳。警報が鳴り、母と3歳上の兄と3人で鳴滝町の自宅近くにあった防空壕(ごう)に向かった。母に手を引かれ、着いた時には既に壕には多くの人がいて中に入ることができなかった。「仁、こっち」。母の手を離し、近くで遊んでいた私に母が声を掛けたその時。ピカッと明るくなった次の瞬間、私は爆風で壕の中に吹き飛ばされた。
 終戦後はひもじく、日々を生きるのが精いっぱいだった。甘い物が食べたくても食料はない。配給の人工甘味料サッカリンの包み紙をなめるのが楽しみで、よく兄と取り合いのけんかをした。
 原爆投下から1年もたっていないころ、母と浦上方面に向かった日のことも覚えている。目に飛び込んでくるのは一面に広がるがれきの山。町がめちゃくちゃで恐怖すら覚えた。その惨状は、幼かった私にとって強烈で、今も頭の中に焼き付いている。
 浦上に向かったのには理由があった。母の弟で、私にとっての叔父を捜すためだ。現在の平和公園周辺で来る日も来る日も遺体を荼毘(だび)に付している人がいるとのうわさを聞いた母は、復員した弟だと思ったようだ。その日は会うことができなかったが、その後再会。鳴滝町の自宅で叔父との生活が始まった。
 父がいなかった私にとって叔父は父親代わりだった。遊ぶ場所がなかったので、時間があると長崎市内にあるいくつもの山々を2人で登り、話をした。原爆では「普通」の毎日を過ごすはずだった何の罪もない人たちが犠牲になったこと、海軍として戦争に加担してしまったこと-。年月がたって街が復興に向かいだしてもずっと、叔父の心に引っ掛かっていたようだった。復員した後、遺体を焼いていたのもせめてもの供養のつもりだったのだと思う。
 戦後70年がたったころ、私は廃品となった電化製品の部品などを使って作品を作り、反戦を訴えるようになった。被爆者の一人として、当時の悲惨な光景を再現し、苦しみながら亡くなった人の無念さや悲惨さを後世に伝えていく責務があると考えたからだ。4年前に92歳で亡くなるまで反戦を唱え続けた叔父の思いも一緒に、今後も表現し続けるつもりでいる。

<私の願い>

 核保有国は核兵器を、武器商人は武器を捨てるという宣言をしてほしい。難しいことだと分かっているが、戦争のない社会への第一歩だ。再び戦争になって、若い世代が惨めな思いや無念な思いをするのは何としても避けたい。

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