自宅は長崎市中小島町(当時)にあり、母ときょうだい7人で暮らしていた。被爆時は幼かったので、記憶はほとんどない。ただ、当時は空襲警報が鳴る度に逃げ込んだ防空壕(ごう)の中がぬれてジメジメしていて、気持ち悪かったことは覚えている。被爆体験は、後に母から聞いた話が中心になる。
1945年8月9日。自宅にいた母と私を含めたきょうだい6人は無事だった。自宅も瓦が何枚か吹き飛んだ程度の被害で済んだ。家族の中では、爆心地から1・2キロの茂里町の三菱製鋼所に学徒動員されていた当時16歳の姉が、1人だけ原爆の犠牲になってしまった。
姉は被爆した時、同僚の女性と一緒に製鋼所のトイレに行っていた。姉が先にトイレの個室に入り、同僚の女性は待ち切れなかったのか「早く出てね」とせかした。それで急いで姉がトイレから出たところに、原爆が落ちたのだった。
トイレの外にいてやけどを負った姉は、熱さと喉の渇きに耐えかねて製鋼所近くの浦上川に飛び込んだ。それ以来行方不明になった姉を家族は懸命に捜した。数日後、大勢の被爆者が運ばれていた大村海軍病院に入院していることが分かった。誰に助けられたのかはわからない。
姉の名前は「雪子」といい、その名の通り肌は雪のように色白だった。しかし、病院のベッドに横たわる姉の顔はやけどでパンパンに膨れ上がり、大きくぱっちりとした目も糸を引いたように細い目になってしまっていた。母はとても自分の娘とは思えなかったそうだ。
そんな姉も、入院した後は徐々に回復した。約2週間が経過した頃、顔のやけども引いてきて「あす退院していい」と医師に言われたのだが、容体が急変して亡くなってしまった。放射線を浴びてしまっていたのだろう。医師も次から次に患者が運ばれて来て手に負えず、十分に治療ができていなかったのかもしれない。
当時は幼かったが、姉の仏壇の前で、一緒にトイレに行っていた同僚の女性が「自分のせいで亡くなった」と泣いていたことを今もはっきりと覚えている。確かに、原爆がさく裂した瞬間にトイレの中にいれば、姉は助かっただろう。でも、それは同僚の女性の責任ではない。姉はそういう運命だったと思っている。
<私の願い>
核兵器廃絶を訴える署名を街中で呼び掛けても、若者は素通りするばかり。被爆の本当の恐ろしさが若者に伝わっていないと感じる。若者には被爆体験にもっと興味を持ってほしい。被爆者と同じつらい思いを今の若い世代にさせたくない。