藤島郁子さん(85)
被爆当時10歳 伊良林国民学校5年 爆心地から3.5キロの中川町(当時)で被爆

私の被爆ノート

前日に退院、命拾い

2020年2月13日 掲載
藤島郁子さん(85) 被爆当時10歳 伊良林国民学校5年 爆心地から3.5キロの中川町(当時)で被爆
 当時、父は軍に召集されて対馬に行っており、母、姉、妹の4人で暮らしていた。被爆した時のことは今でも鮮明に覚えている。
 被爆する1カ月前の1945年7月、料理の手伝いをしている最中に鍋をひっくり返し、膝に大やけどを負った。治療のため、爆心地に近い長崎医科大付属病院(坂本町)にしばらく入院した。早く外で遊びたかったので、8月8日に医者が止めるのを聞かずに退院した。これで結果的に命拾いした。
 9日は午前10時に病院に来るように言われていた。ところが自宅近くで友達と遊んでいて夢中になり、病院に行くことなど忘れてしまっていた。縄跳びをしていると、いきなり「ピカッ」と光り、「ドン」という大きな音がした。近くの川の向こうに、真っ黒い煙が渦巻いているのが見えた。爆心地から遠かったこともあり、幸いけがをすることはなく、自宅にも被害はなかった。
 長崎市立高等女学校の3年生だった姉は学徒動員されて、爆心地から約1・7キロの三菱重工業長崎造船所幸町工場で働いていた。幸町工場に爆弾が落とされたといううわさを聞き、母と一緒に姉を捜しに工場へ向かった。長崎駅付近まで行くと、たくさんの人が逃げ惑って混乱しており、工場方面には進めなかった。「姉はもう亡くなっているのだろう」とあきらめて帰った。
 夕方にふと気が付くと、姉がいつの間にか自宅に戻っていた。疲れ果ててぼうぜんとした様子だったが、無傷だった。被爆した時、姉は工場の2階で食事をしていたが、気が付くと2階が崩れて1階に落ちていたという。歩いて中川町の自宅に帰る途中、やけどして体が真っ黒に腫れ上がった人や、腹ばいになって死んでいる馬を見たということだった。
 その日のうちに、家族4人そろって長崎東部の矢上村の親戚宅へ疎開することになった。夜に荷物をまとめていると、火災の炎で空が真っ赤に燃えていた。子ども心に恐ろしいものを見たという思いが忘れられない。矢上で数日間過ごした後、母の実家がある五島・奈留島に移って終戦を迎えた。
 若いころは貧血で何度も入院を繰り返し、血が通わず顔が青白かった。被爆前に負った膝のやけどの跡は今でも残っている。
 
<私の願い>
 戦後は子どもや孫、ひ孫に恵まれ、平凡だが幸せな暮らしを送ることができている。だからこそ、私が受けた原爆の苦しみを次世代に味わわせたくない。戦争は絶対反対。平和な日本がこれから先もずっと続くことを願っている。

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