青木聡昌さん(77)
被爆当時3歳 爆心地から2.6キロの長崎市東上町(当時)で被爆

私の被爆ノート

兄の生還信じた母

2019年11 月28日 掲載
青木聡昌さん(77) 被爆当時3歳 爆心地から2.6キロの長崎市東上町(当時)で被爆
 5人きょうだいの末っ子で、当時は3歳8カ月だった。なぜか覚えていて忘れられないことがある。意識していなくても記憶がよみがえってくる。

 当時は、現在の中町公園から長崎歴史文化博物館につながる通り沿いに住んでいた。あの日は何軒か離れた先の道路で、母に手を引かれ配給の列に並んでいた。飛行機の編隊が爆音とともに近づいてきた。「あっ、B29」と指さした瞬間、紫色の光が目の前に広がった。母に腕を強くつかまれて逃げたが、隣家のれんが壁の下敷きになった。
 母が覆いかぶさってくれたおかげでけがはしなかった。母はたぶん負傷していたと思うが覚えていない。がれきの下からはい出すと周りは粉じんで薄暗い感じだった。家に戻ると天井がなく、空が見えたことを覚えている。
 家の玄関の前で、通りを裸同然でよろよろと支え合いながら歩く人たちを見た。目玉が飛び出し垂れたような状態。やけどで皮膚が垂れ下がり引きずっていた。現実ではないみたいで、子どもながらにショックだった。
 10歳上の長兄は学徒動員で長崎市大橋町の三菱兵器製作所大橋工場で働いていた。あの日は朝から「行ってきます」と家を出たまま戻らなかった。浜町近辺で軍服工場を営んでいた父が捜しに行った。学徒動員の人たちは赤迫の六地蔵の方に逃げたという話を聞いて捜したが見つからず、大橋工場で兄の懐中時計の鎖を見つけて持ち帰った。父はその後、髪が抜け落ちた。1966年にがんで亡くなった。
 母は長い間、「どこかで生きている。必ず生きてる」と兄の生還を信じ続けていた。兄の同級生が線香を上げに来ても「まだ死んでいないから」と言って拒んだ。40年後の85年5月、同じ工場で働いていた同級生が訪ねて来て「即死でした」と教えてくれた時に、ようやく兄の死を受け入れた。
 その時、母は「原爆を憎む拳のやりどころ」という俳句を作った。誰に怒りをぶつけていいか分からない、という思いが込められている。母もがんを患い、88年に父の後を追った。
 今も兄の同級生が「線香を上げさせてください」と来てくれる。「友人の大半が亡くなったのに申し訳ない」と。生き残った人も、いろんな葛藤や苦しみを抱えながら生きている。

<私の願い>

 原爆では元気だった人が一瞬で灰になった。核兵器は恐ろしく、むごいもの。今は一触即発の世の中で、いつ自分たちの身に降りかかるか分からない。若い人たちもひとごとだと思わず、核廃絶をもっともっと強く訴えていってほしい。

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