当時は爆心地から約700メートルの場所に自宅があった。父は出征していて、山里国民学校(橋口町)の教師だった母、3歳の弟、1歳の妹、お手伝いの女性と5人で暮らしていた。
あの日は朝9時ごろに空襲警報が出て、10時には警戒警報に変わった。みんなは「もう大丈夫だろう」と防空壕(ごう)から出ていた。家で遊んでいると、お手伝いさんに防空壕の場所取りを頼まれた。最寄りの壕は護国神社の下にあった。奥行きが10メートルもなく、何十人も入れないから、次の空襲警報に備えて事前に場所を確保するためだった。壕から出る人たちに、すれ違いざまに「泰ちゃん、もう警戒警報になったばい」と冷やかされた。
弟は壕の一番奥に座らせた。壕内はとても暑かった。自分はパンツ一丁で壕の前の空き地や川で遊んでいた。すると米軍の飛行機が低く飛んで来た。一緒に遊んでいた友人から「撃たれるぞ!」と言われ、慌てて壕の中に逃げた。入って間もなくして、ごう音が鳴り響いた。原爆の光は見ていない。ごう音と同時に、天井の土がどっと落ちてきた。必死にはいだして外に出た。壕の入り口付近にいた人は、どこかに吹き飛んでいた。弟、妹、お手伝いさんは壕の中にいて無事だった。
外の景色はまさに地獄だった。護国神社の上の山に向かっていると、学徒動員の学生だろうか、やけどして横たわり、次々に死んでいく姿を見た。山に登って町を見下ろすと、一面火の海だったので壕に戻った。気が付くとはだしになっていた。道に落ちていたぶかぶかの靴を拾い、それを履いて歩いた。
壕に戻ると、やけどを負った人が次々に逃げて来た。「水をくれ」と頼まれて困った。目の前の川に行きシャツをぬらし、口に当ててあげた。ほとんどの人がそこで死んでいった。
夜の7、8時ごろだろうか。1人の女性が川を渡って来た。つえをつき、体にはガラスが突き刺さり全身血だらけ。幽霊みたいなその人は私の前に立ち「泰ちゃん、生きとったね」と言った。そのときに初めて母だと分かり、泣きに泣いた。母は爆心地から約600メートルの山里国民学校の職員室にいて被爆したのだった。
出征していた父は8月21日に長崎に戻り、片淵町の伯父の家で再会した。原爆で重傷を負った母は72歳まで生きた。
<私の願い>
戦争を経験した私たちは、戦後も本当に苦しい思いをして泣いてきた。戦争だけは絶対にしてはいけない。日本は「平和ぼけ」と言われるが、それぐらいでよい。戦争で苦しんだ立場からすれば、核廃絶は当たり前だと言いたい。