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私の被爆ノート

県庁から炎高く

2017年7月6日 掲載
伊藤 武治(75) 伊藤武治さん(75)=長崎市= 被爆当時4歳 爆心地から3.8キロの長崎市館内町で被爆

原爆が投下されたのは、長崎市館内町の自宅の玄関先で、飼っていた鶏に母が餌をやっていた時だった。私はそばにいて、目の前がグラグラと揺れるような感覚に襲われた。玄関戸が倒れてガラスが飛散し、私は右目の上を切った。傷口をこすって顔中血だらけになった。
この時、父母ときょうだい8人の計10人家族のうち、母と末っ子の私だけが家にいた。母に背負われ近くの防空壕(ごう)に行ったが、人が多くて入れなかった。母は山手の方に逃げ、隣の稲田町にあった火の見やぐらのそばで私を背中から降ろした。2人で高台へ続く石段を上ると、数人が座っていて、母と私も座り込んだ。そこからは、県庁からひときわ高く炎が上がっている様子が見え、一帯が燃えていた。「最後かもしれんけん、よう見とかんね」と言った母の声は今も耳に残っている。
原爆投下時、父と次男は食料調達で島原に行っており、長男は出征、次女は茂里町の三菱長崎製鋼所に動員され、ほかのきょうだい4人は自宅近くの祖父母宅にいた。4人は無事だったが、次女の安否だけが分からなかった。
母は私を連れて捜しに行ったが、私はひどくせき込んだ記憶がある。煙をたくさん吸い込んでしまったのだろう。次女の行方は日中は分からなかったが、夜になって帰ってきた。製鋼所でがれきの下敷きになり血だらけだったが、見ず知らずの男性に助け出されたという。しばらく傷口からはウジが湧き、ガラス片が出てきていた。
父と次男も翌日に島原から戻った。父はその後、2週間ほど爆心地付近に住んでいた伯父の家族を捜し回ったが、見つからなかった。
父は被爆から19年後、腹に直径約10センチの黒い腫れ物ができた。大腸がんと診断され、3カ月後に逝った。その7年後、母は狭心症となり心不全で亡くなった。
私も20年前、喉のがんを手術し声帯を切った。声は出るようになり、長崎市のまち歩き観光「長崎さるく」のガイドになったが、約10年前には心筋梗塞の手術を受けた。医師には完治してもほとんど歩けないと言われたが、リハビリを重ねガイドができるまでに回復した。
私は両親の病気も私の病気も原爆のせいだとは思いたくない。過去を引きずることより、これからの平和を大切にしたいからだ。

<私の願い>

命は一つしかないので、誰もが自分の命だけでなく、他人の命も大切にしてほしい。そして、子どもたちには自分の古里に誇りを持って生きてほしい。長崎が永久に最後の被爆地であり続け、平和な世の中がいつまでも続くことだけを願っている。

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