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私の被爆ノート

髪は抜け 顔に発疹

2017年6月22日 掲載
岩永千代子(81) 岩永千代子さん(81)=長崎市= 当時9歳 深堀国民学校4年 爆心地から10.5キロの西彼深堀村(当時)で原爆に遭う

あの日、自宅から約500メートルのサツマイモ畑で母と作業をしていた。午前11時ごろ、母を置いて1人で帰宅していると上空を2機の飛行機が飛んでいった。そばを歩いていた軍人2人が「日本のものじゃないな」と言った。次の瞬間に閃光(せんこう)と爆風に襲われ、10メートルほど離れた防空壕(ごう)に夢中で飛び込んだ。幸いけがはなかった。壕は畳2枚ほどの広さで、10人ほどが逃げ込んでいた。数時間いて自宅に戻ると、窓ガラスは砕け、柱時計は床に落ちていた。近所の岩場に人が集まっていたので行ってみると、長崎市中心部の大波止付近の街が燃え、真っ黒い煙が立ち上っているのが見えた。昼なのに辺りは夕暮れのように薄暗かった。
1週間ほどたったころ、くしで髪をすくとはらりと抜けた。歯を磨くと血が出た。症状は約1カ月続いた。顔にも発疹ができたが、なかなか治らなかった。その後、のどに圧迫感や痛みを感じるようになった。四つ下の妹にも同じ症状が出た。自分たちの畑で取れた野菜を食べ、ふたのない井戸の水を飲んだ。当時、原爆でまき散らされた放射性物質による内部被ばくの怖さを知るよしもなかった。
40歳のころ、年に数回、声が出なくなり、たんには血が混じっていた。50歳のころ、医師から甲状腺異常と診断された。体がすぐにだるくなり、被爆者の夫と同じ症状だった。
2000年ごろ、地元の西彼三和町(当時)の役場で被爆者健康手帳の交付を相談すると、職員に「難しいですね」と言われた。被爆地域は爆心地から南北に12キロ、東西に7キロ。私が被爆した場所は12キロ以内だが、被爆地域の外だった。
私のように爆心地から12キロ以内で原爆に遭いながら、被爆者と認められていない「被爆体験者」らが2007年、国、県、長崎市を相手に手帳の交付を求め集団提訴。原告団の役員として他の原告の聞き取りもし、白血病や甲状腺がんを患い、私よりずっと苦しんでいる姿を目の当たりにした。
残りの人生もそう長くない。訴訟を起こしたのは、今も苦しむ大勢の人々を被爆者と認めない、国のいびつな仕組みが許せなかったからだ。一般人が病と被爆の因果関係を立証するのはたやすくないが、それでも原爆が人間にどれほどの影響を与えたのか、真実を知りたい。

<私の願い>

爆心地から12キロ以内で原爆に遭いながら被爆者と認められていない人の体に、放射線がどのような影響を及ぼしたか疫学調査を実施してほしい。その結果を東京電力福島第1原発事故の被災者や原発作業員らの健康を守ることに生かしてほしい。

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