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私の被爆ノート

猛烈な爆風で地面に

2017年6月8日 掲載
冨永 彪(82) 冨永彪さん(82)=長崎市= 当時10歳 式見国民学校5年 爆心地から7.8キロの西彼式見村(当時)で原爆に遭う

現在住んでいる長崎市見崎町は当時、西彼式見村大崎郷で、辺り一帯はサツマイモ畑だった。両親と祖父母、きょうだいの10人暮らし。サツマイモ農家だったが、とにかく貧しかった。食糧難はどこも同じで、市内から買い出しに来る者もいたが、こちらも少ない食糧を売れない。「小さな種芋でもいいから売ってくれ」と言う人もいた。
あの日は近所の家の庭で、友達4人とメンコ遊びをしていた。突然、地面の色が青白く変わり、振り返ると長崎市方面の上空に、太陽のように大きく、真っ赤な火の玉が見えた。数秒後に猛烈な爆風が吹き付け、地面にたたきつけられた。恐怖で身動きが取れず、30分くらいは腹ばいになってじっとしていた。
しばらくして友達と近くの防空壕(ごう)に入り、日が落ちるまで息を潜めて待った。自宅に帰ると爆風で障子がほとんど破れてしまっていた。
集落の警防団長だった父は、原爆で傷ついた人たちを救護するため1週間くらい市内に通った。「一面が焼け野原で、浦上川は死体だらけ」と話していた。
9月ごろになって父は原因不明の高熱に襲われた。病院に通い、薬を処方してもらったが一向に良くならない。その年の暮れには起き上がることもできなくなった。高熱でもうろうとなり、うわ言をつぶやきながら翌年2月に息を引き取った。43歳。気の毒で、哀れな死に方だった。
異変は私の体にも起きた。原爆の光を浴びた直後から、後頭部に発疹のようなものができ、痛がゆい。丸刈りだったので発疹が目立ち、学校では上級生から「鳥のふん」といじめられ、みじめだった。
父が亡くなり、家族で男手は私だけになったため、毎日畑仕事をし、学校にはあまり行けなかった。中学卒業後、横浜市で精密機械の工場に就職。結婚したが子どもができず、医師に「諦めてくれ」と告げられた。原爆の影響だと思う。
定年後に長崎に戻り、被爆者健康手帳を申請したが、式見村は被爆地域に含まれず交付してもらえなかった。長崎の被爆地域は南北に約12キロ、東西に約7キロといういびつな形をしている。だから式見村より離れた場所で被爆したのに手帳を持っている人もいる。
国の被爆体験者支援事業で第二種健康診断受診者証は交付されたが、「被爆者」としての援護が受けられないのは納得できない。
<私の願い>

現在のいびつな形の被爆地域の線引きはおかしい。国の責任で、爆心地から同心円状に改めるべきだ。多くの人たちが戦時中はもちろん、戦後も病気と貧困に苦しんだ。国民にみじめで悲しい思いをさせる戦争はもう二度としないでほしい。

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