あの日、たった一つ違う行動を取っていれば、この世にいなかったかもしれない。傘寿を過ぎても生かされている意味を考えている。
同級生と2人で爆心地近くの浦上川に泳ぎに行く約束をしていた。だが母はその日に限って厳しく、夏休みの宿題をしてから遊びに行くように言った。私は泣く泣くたまった絵日記を書き、窓から流れ込む風が気持ち良かったのを覚えている。突然ピカッと光り、目の前が真っ白になり猛烈な爆風に襲われた。すぐ近くに爆弾が落ちたと思うほどの衝撃で、慌てて家の中に掘っていた防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
どのくらいたっただろうか。壕から出て驚いた。家の中の家具は倒れ、割れたガラス片が壁に突き刺さっていた。外は異様に静かだった。土煙が舞い、瓦が吹き飛ばされた家々が見えた。血を流しながら右往左往している人もいた。「今までと違うぞ」。混乱した状況の中でも、ただ事でないことだけは分かった。家には母ときょうだい計7人がいて、七つか八つ上の兄はガラス片で腕を切ったが、出島で働いていた父も含め家族8人全員が無事だった。
だがあの日、遊ぶ約束をしていた同級生は浦上川に行ったと思われ、学校が再開しても登校せず二度と会うことはなかった。私も母に止められなかったらと思うと恐ろしい。
家の片付けが落ち着き始めた15日。日本が負けて、戦争が終わったと知った。子どもながらに、天皇陛下のために何もできなかったことが悔しく、腹を切って死にたいとさえ思った。当時、学校では立派な兵士になり国のために尽くすべきだと教育されていた。
戦前、戦時中からの食糧難は終戦後も続いた。常に空腹の状態。ドロップ2、3粒を昼ご飯にしたり、空き家に取り残されたニワトリを捕まえたり、空き地に生えていた草を食べたりしたこともあった。こんな生活が12歳ごろまで続いた。
原爆で多くの人が犠牲になった中、私にできることは原爆の悲惨さを伝え続けることだと思う。2009年、世界各地を巡り核廃絶を訴えるピースボートの船に乗ったのを機に、翌年から自費でタイを中心とする東南アジア諸国で語り部活動を本格化させた。現地で日本語を学ぶ高校生や大学生に当時の惨状を写真で見せながら、絶対に核兵器を持たないよう訴えている。
<私の願い>
核戦争の悲惨さを他国に伝えるのは日本政府の役割だと思うが、その努力が足りないのではないか。核戦争はもう二度とあってはならない。そのためにも長崎、広島で起こった事実を直視し、核兵器の非人道性を多くの人に知ってほしい。