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私の被爆ノート

やけど一生残った姉

2017年5月11日 掲載
太田 行一(82) 太田行一さん(82)=長崎市= 当時10歳 勝山国民学校5年 爆心地から2.5キロの長崎市西中町(当時)で被爆

両親、兄、姉、妹2人と計7人で長崎市立山町(現立山2丁目)に住んでいた。自宅近くに町の防空壕(ごう)を掘ることになり、空襲で家が燃えると壕に煙が入るとの理由で、徒歩で10分ほど離れた西中町(現中町)の借家に引っ越さなければならなくなった。移ってから9日目に8月9日を迎えた。
朝から警戒、空襲警報が鳴ったため、自宅にいた母、3歳上の兄、勝山国民学校1年と2歳の妹2人と近くのやぶの中に逃げた。警報が解除されたので帰宅すると、飛行機の音がした。兄と2人で庭に出て、空を見上げた。突然ピカピカッと稲光のように光ったので、とっさに家の中に走り込み、畳の上に伏せた。
しばらくして目を開けると、周囲はほこりなどで真っ暗だった。家の壁は爆風で吹き飛び、奥にあったはずのたんすが玄関に倒れていた。私はほこりやちりをかぶったが、けがはなかった。でも家が燃えていたので外に逃げた。母は足を材木に挟まれ、兄が材木を動かして助けようとしていた。母は私に「大丈夫だから先に逃げて」と促し、兄も「すぐに(材木を)どかせるから」と言うので、国民学校1年の妹の手をひき、家族で集合場所に決めていた立山の先祖の墓へ逃げた。途中、破れたズボンの先から足の肉がえぐれて骨が見えている同い年くらいの男の子から「敵機が来た。こっちに逃げよう」と言われたが、気持ちが悪くて付いていけなかった。
その日のうちに三菱長崎造船所立神工場で働いていた父と、長崎駅の職員だった姉も含め、家族全員が立山の墓で落ち合うことができた。姉は泊まり明けで帰宅しようと駅を出たところを被爆し、顔や腕にやけどを負い、腕のやけどは一生痕が残った。父は無事だったが、生前、原爆について一切語らなかった。
自宅が全焼したため帰る場所はなく、20日以上、先祖の墓の下にあった他人の広い墓の敷地で過ごした。3、4日、何も食べられないこともあった。父の知人がカボチャなどを持ってきたが、腐っていたのか、甘みを感じなかった。諏訪神社そばの防空壕で食べ物がもらえるのではないかと思い家族7人で向かった。だが小さいおにぎりが1個しかもらえず、泣いていた2歳の妹に食べさせた。母に「ふとかもんは我慢せんばしょうがなか」と言われたが、食べたくて仕方がなかった。

<私の願い>

8月9日の平和祈念式典は、今でも原爆のことを思い出して涙が出てくるので、参列したことはなく、テレビ中継も見ることができない。戦争は攻撃した方もされた方も、全ての人々を不幸にする。絶対にしてはいけない。

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