終戦間際、旧西彼式見村の上空を毎日のように米軍機が飛んだ。空襲警報が鳴るたびに防空壕(ごう)へ駆け込んだ。操縦士が見えそうなほど低く飛ぶので恐ろしかった。
祖母、両親、きょうだい4人の7人で、海辺の家で暮らしていた。両親は半農半漁で生計を立て忙しく、あまり家にいなかった。
代わりに子どもたちの面倒を見てくれたのは祖母。空襲を避けるため、今の式見ダム(長崎市園田町)近くの竹やぶによく連れて行かれた。蚊帳を張って寝泊まりし、2、3日とどまることもあった。朝は近くの小川で顔を洗い、食事は母が自宅から持ってきていた。
あの日もそうだった。朝から友達と海で泳いでいると、祖母が私を竹やぶに避難させようと呼びに来た。式見川に架かる橋を渡り、墓地の近くを歩いていた時、突然、ピカッと強烈な光が辺りを照らした。ドーンと雷が落ちたような音が鳴り響き、山のあちこちで崖崩れのように岩が転がり落ちた。竹やぶまでは子どもの足で30分以上。息を切らして逃げた。
警防団だった父は原爆投下後10日間ほど、遺体を焼く作業のため市街地に歩いて通った。私も5歳離れた兄、2歳上の姉と一緒に父に弁当を届けたらしいが記憶はない。兄は「牛や馬が川に浮かび、人の遺体が転がっていた」と話していた。
式見中を卒業後、15歳で漁師になった。その後ずっと被爆者健康手帳は申請しなかった。船員保険に入っていたので、それほど医療費はかからず必要ないと考えたからだ。幸い原爆の影響を疑う症状も出なかった。しかし、71歳で船を下り、原爆症が出たらどうしようと不安に駆られた。
旧式見村区域は式見川を境に、被爆したとして手帳がもらえる「川の向こう」と、原爆に遭ったが被爆者と認められず、第2種健康診断受診者証しか交付されない「こちら側」に分断されている。家が「こちら側」にあった私は受診者証しか持たない。
しかし、祖母と避難した際、「川の向こう」に渡った記憶があったので、数年前、長崎市に手帳を申請したが、担当者は「証人がいない」と一蹴。一緒にいた祖母は既に亡くなり、私はもう手帳をもらえないだろう。たった数メートルの川で、被爆者とそうでない人がなぜ分けられるのか。今も納得がいかない。
<私の願い>
食べ物がなく、死が身近にあった当時のひどい状況は、若い人にはとても考えられないかもしれない。しかし決してオーバーではない。今を生きる人は、戦争体験者の言葉を理解しながら聴いて、少しでも平和な世の中を目指してほしい。