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私の被爆ノート

とっさに「総員退避」

2017年4月13日 掲載
鶴 昭男(81) 鶴昭男さん(90)=長崎市= 被爆当時18歳 岩国海軍航空隊2等兵曹 入市被爆

「いい天気だ」。朝食を終え、そう言いながら机に向かった瞬間だった。すさまじい光が襲い、一瞬目がくらんだ。8月6日朝、広島県西部の民家の一室。今の光は何だったのかと思い、急いで外に出た。隣の家の屋根にはしごを使って上り、周囲を見回したが、しんと静まり返っていた。

いきなり家が宙に浮いたような感覚に襲われた。「艦砲射撃! 総員退避」。近くに砲弾が落ちたと思い、とっさに叫んだ。急いで屋根から降り近くの防空壕(ごう)に入った。しばらくたっても、外から何の音もしないので壕を出ると辺りは真っ暗だった。きのこ雲か「黒い雨」を降らせた雲に覆われていたのだろうか。何が起きたのか分からないまま、民家に戻った。

当時、所属していた岩国海軍航空隊(山口県)の隊員たちは、複数の民家に分かれ寝泊まりしていた。だが、自分がどの地域の民家にいたのか覚えていない。広島原爆から数日間の記憶もない。

8月15日朝。突然、民家に軍用トラックが横付けし、上官から荷台に乗るよう指示された。荷台にはドラム缶一つとむしろが1枚。どこに行くのか分からなかった。広島市中心部にさしかかると、やけどを負ったり足を引きずったりしている人たちが「乗せてください」とトラックに近寄ってきた。「公用ですから、公用ですから」。そう断るしかなかった。近くの川の中から船に遺体を引き上げる様子と、鉄骨がむき出しの現在の原爆ドームの姿が目に焼きついている。

正午前、市内の小さな駅近くの旅館に立ち寄り、ラジオを聞いた。玉音放送だった。放送が終わると、上官から自宅待機命令を告げられた。すぐに汽車や貨車を乗り継いで、両親が疎開していた長崎の道ノ尾駅近くの親戚宅へ向かい、17日夜に着いた。

母が行方不明と父に聞かされた。8月9日午前、母は路面電車に乗って県庁へ向かっていたという。父は母を捜しに爆心地付近へ入ったが、「見つけられなかった」と無念そうに語った。

翌朝。母を捜しに爆心地へ向かった。あたり一面廃虚となっていたが、死体はもう片付けられていた。救護所となっていた新興善国民学校にも行ったが、手掛かりはなかった。「俺の代わりに先に逝ったのか」。そう思ったが悲しみはなかった。感覚がまひしていたのか、涙も出なかった。

<私の願い>

戦争は人の感覚をまひさせる恐ろしいものだ。原爆はもちろん、戦争や武力による威嚇は絶対に許されない。人間関係も国家関係も相手を思う気持ちが重要だと思う。各国が真の意味の「共存共栄」の精神を持てば、平和は保たれるはずだ。

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