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私の被爆ノート

心凍るような恐怖

2017年3月30日 掲載
松本 隆(86) 松本隆さん(82)=福岡市= 当時10歳 長与国民学校5年生 爆心地から3.5キロの西彼長与村高田郷で被爆

8月9日朝は父のお使いで長与駅前のたばこ店に向かった。たばこを買う前に大好きな汽車を一目見ようと駅舎に入った瞬間、改札の向こうの景色が黄色に染まった。「危ない、何かが落ちた」。目と耳を押さえて床に伏せると、言葉に言い表せないほど大きな音がして熱風が体の上を吹き抜けた。1分もしないうちに起き上がり駅舎の外に出ると、辺りは暗くなっていた。

空を見上げると白と赤と黒が混じった雲が視界いっぱいに広がり、空から渦を巻きながら自分の方に迫ってくるようだった。まるで火山噴火の火砕流のよう。のみ込まれそうで心が凍るような恐怖を感じ、生まれて初めて死を意識した。記憶はそこで途切れている。走って近くの家に帰ったはずだが、どこを通り、何を見たのか思い出せない。それほど必死だったのだろう。

原爆投下の直後か1、2日後なのかは覚えていないが、避難者が家の前の道をぞろぞろと歩いていた。服はぼろぼろで血を流している人もいた。米軍機とみられる航空機が低空飛行しても誰も逃げようとしなかった。感情と気力をなくしていたのだと思う。

多くの人が悲惨な目に遭いながらも私の家族7人は全員無事だった。三菱兵器製作所大橋工場に学徒動員されていた15歳の姉は、部品を取りに屋外から建物に入った瞬間に被爆。吹き飛ばされてがれきに埋もれたが、若い男性が引っ張り出してくれたという。14歳の姉は長崎女子商業学校に通学するため長与駅で汽車に乗るはずだったが、発車が15分ほど遅れた。停車中に警戒警報が鳴り帰宅したが、もし定刻通りに出発していたらと思うとぞっとする。父も爆心地から離れた新大工町の職場にいて大丈夫だった。

数日後、浦上の親戚の元へ母と15歳の姉と一緒に向かった。線路沿いに歩いたが、道ノ尾駅から先は線路がなくなっており、道路に下りた。周囲は火がくすぶり、いくつもの焼死体が丸太棒のように道端に転がっていた。高さ3メートルほどの防火用の水槽に前脚をかけたまま死んだ馬もいた。「とにかくすごいことがあったんだ」と思った。凄惨(せいさん)な光景に驚きはしたが、混乱のせいか怖さは感じなかった。

同じ原子雲の下にいたのに私は長生きをしている。助かって良かったと思う半面、亡くなった人への気の毒さや罪悪感を72年たった今でも感じている。

<私の願い>

最初で最後の被爆者でありたいと思うが、いつか核兵器が使われる時が来るのではないかと切実に感じている。(戦争被爆国の)日本だからこそ言えることがある。世界で核廃絶の世論を形成するために日本が先頭に立って行動してほしい。

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