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私の被爆ノート

校庭に死体ごろごろ

2017年3月16日 掲載
古藤 直広(87) 古藤直広さん(89)=島原市= 当時17歳 長崎師範学校本科1年 爆心地から2.7キロの長崎市五島町で被爆

長崎師範学校の隣にあった三菱兵器製作所大橋工場に動員され働いていた。8月9日の朝、夜勤を終え学校隣の寮で寝ていると、舎監の先生が起こしに来た。転勤する別の先生の引っ越しを手伝うよう言われ、仲間と上小島の先生宅に行った。

先生宅で大八車に荷物を積み長崎駅に向かって五島町を歩いている途中、ぱあっと青い光が見え目がくらむようだった。体が熱くてたまらず、近くの家にあった防火用の水だめに入った。水から出てぼうぜんと座っていると、名前を呼ぶ声がした。顔を上げると、やけどで顔の皮膚が垂れ下がった男性が立っていた。服の胸に付いた名札で同級生と分かり、「その顔はどうしたのか」と尋ねると「おまえもどうしたんだ」と言われた。私も顔をやけどしていると教えられ、急に痛くなった。近くの病院に向かったが、割れた窓ガラスの破片で負傷した入院患者が何人も外に出て座り込み、痛みを訴えていた。私たちは元気な方で診察してもらえる状況ではなかった。

学校や寮のある浦上方面に向かったが、浦上駅の辺りは炎に包まれており、それ以上先には進めなかった。電車からは煙が出て、乗降口から血が流れ出ていた。だが一緒にいた仲間が炎がない場所を見つけ、そこを抜けた。山王神社のクスノキのこずえは燃え、どぶに顔を突っ込んで死んでいた人がたくさんいた。水を飲みたかったのだろう。

その死体をかき分けるように進むと、喉が渇いてきた。田んぼで水を飲もうとしたが、死んだカエルがたくさん浮いていた。学校に戻ると、校門で先生が気が狂ったように「あっちに行け」と言う。仕方がないので回り道をして寮に向かうと、校庭に同級生たちの死体がごろごろ転がっているのが見えた。私も寮に残っていたら死んでいただろう。

長与は安全だろうと思い、その日のうちに歩いて向かった。長与国民学校(現長与小)には負傷して逃げてきた人がたくさんいた。講堂に敷いた畳の上で寝た。翌日、長与まで追い掛けてきた師範学校の先生から故郷に帰るように言われ、列車に乗り島原に戻った。実家では1カ月間ぐらい、蚊帳の中で寝て過ごした。鼻血がたくさん出たり、髪が抜けたりして、生きていけないだろうとも思った。二十五、六歳のころ、何回か見合いの話もあったが、被爆しているとの理由で会うことさえできないこともあった。

<私の願い>

米国が1945年8月9日に人類に対して行ったことを忘れてはいけない。米国は反省しておらず、トランプ大統領は核戦力を拡大しようとしているが、人類愛を大切にしてほしい。人間が人間を愛することが平和の始まりだと思う。

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