戦時中、軍属として通信の仕事をしていた父はジャワ島など東南アジアに赴任し、召集令状が届いた長兄は訓練のため四国にいた。残された母ときょうだい7人の家族8人は、長崎市上田町の自宅近くの星取山の中腹へ疎開し、8畳ほどの牛小屋で身を寄せ合うように暮らしていた。
8月9日。私は小屋の外で昼食の準備をしていた。乱切りしたカボチャを鉄鍋に入れ、海水で味を付け、まきの火で煮込んだ。何げなく空を見ると、金比羅山の方に浮かぶ雲の隙間から黒い鳥のような影が出てきた。
目を凝らすとそれは飛行機だった。落下傘を付けた黒い物体が切り離され、フワフワと落ちていった。突然、周囲が稲妻のような光に包まれ、突風で体がよろけた。地上からもこもこと煙が沸き上がり、上空で大きなキノコのような形をつくった。空襲だと思い、鍋に水を掛けて火を消し、防空壕(ごう)へ逃げた。
しばらくして外へ出ると、県庁の上階から煙が出ていた。次第に火が町に広がり、日没後も燃え続けた。幸い、家族は全員、畑や遊んでいた所から無事に小屋に戻ってきた。
私は翌朝、千馬町(現出島町)にあった勤務先の長崎電話局に向かった。途中の坂道にはむしろが敷かれ、血まみれの男性が何人も横たわっていた。職場に着いたが、機器が故障して使えず休みとなった。
その2日後、母から、坂本地区で暮らす母のいとこの安否を確認するよう頼まれた。1人では心細く、父の同級生の近所のおじさんと、三男の弟に付き添ってもらった。
長崎駅を通り過ぎると、ほとんどの建物が破壊されていた。黒い遺体のようなものも転がっていたが、恐ろしくて直視できず、おじさんの背中に顔を伏せて歩いた。目的地に着いたが、がれきで家の境界すら分からなかった。母のいとこは、奥さんと幼い子どもと暮らしていたが、消息は分からないままだった。
終戦後、父と長兄は戻ってきた。だが父は病気がちで結核や胃潰瘍を患い、67歳で亡くなった。私は20代になると、手のひらや足の裏が霜焼けのように腫れる症状に悩まされた。物を持ったり、立ち上がったりすると激痛が走った。一時期は外出もできず、両膝を立てて家の中を移動した。病院でも原因は不明だった。40代になり痛みは引いた。しかし、体中に被爆の影響が残っているという不安がいつまでも消えなかった。
<私の願い>
原爆が落とされてから70年以上がたち、多くの人が平和な世の中に慣れてしまっているように感じる。親族にも私の被爆体験を「大げさだ」と信じてくれない人もいる。あの日、長崎で何が起きたのか、特に若者に知ってもらいたい。