岡崎 満也
岡崎 満也(94)
岡崎満也さん(81)=福岡市= 当時9歳 北大浦国民学校4年 爆心地から3.8キロの長崎市大浦町で被爆

私の被爆ノート

川が遺体の“ダム”に

2017年2月16日 掲載
岡崎 満也
岡崎 満也(94) 岡崎満也さん(81)=福岡市= 当時9歳 北大浦国民学校4年 爆心地から3.8キロの長崎市大浦町で被爆

8月8日の晩から警戒警報が鳴り、大浦町の自宅から300メートルほど離れた防空壕(ごう)に避難。そこで9日の朝を迎えた。母は昼食の準備をするため、2歳の妹を連れて午前10時ごろ帰宅。私と6歳の弟は近所の子どもと居残り。防空壕の前の道の縁石にまたがって座り、誰かの紙の将棋盤と木製の駒で遊んでいた。

「B29がまた来たな」。キラキラと光る飛行機が、雲一つない稲佐山の上空を通過するのを見た。するとカメラのフラッシュを目の前でたかれたように白い光が走り、何も見えなくなった。次に襲ってきたのは、経験したことがない猛烈な爆風。一撃だった。私は両脚で縁石を挟み込んで伏せたが、驚いて立ち上がった弟は約2メートル先に吹き飛ばされて膝を擦りむいた。

防空壕には近所の人が集まり始め、遅れて母もやってきた。周りの人が疲れて横になる中、母だけがしゃがみ込んだまま。不思議に思い、その背中を見るとたくさんのガラス片が突き刺さり、長じゅばんが真っ赤に染まっていた。近所のおばさんが、針でガラス片を取ってくれた。爆弾が再び落ちるのを恐れ、多くの人が10日も防空壕に残った。

11日朝、祖母と母、きょうだい3人で母の実家に避難しようと雪浦村(現在の西海市)へ向け出発した。燃えた県庁や電車。「どんな爆弾が落とされたのか」と思った。「水、水、水」。浦上駅周辺で数人から求められて水筒の中身を差し出した。すると、うつろな目をした人々がゾロゾロと集まって来た。怖くなって水筒を逆さに振り、水がないことを知らせてまた歩いた。

大橋付近では浦上川が遺体で埋め尽くされて“人間のダム”のようだった。「戦争は嫌だ」。突然母が泣き叫び、祖母がその口を押さえた。「おふくろが非国民になってしまった」。目の前の悲惨な光景よりも、母の言葉の方にショックを受けた。

母はその夜、親戚の家で金だらいの半分くらいの血を吐いた。「おかしくなって死んでいくのだろうか」。寝ずに看病をしながら、母が狂ったように「戦争は嫌だ」と叫んだことを思い出した。幸い、2日ほどして回復した。

妹は1年もたたず原因不明で死亡。自分も脱毛や歯茎の出血がいつ現れるかと不安だったが高校卒業を機に開き直った。「クヨクヨしてもしょうがない。死ぬときは死ぬ」。そう思い、仕事に打ち込んで生きてきた。

<私の願い>

ヨーロッパで右派の勢いが増したり世界中で小さな争いが起こったりなど、今の雰囲気は第2次世界大戦が始まったころに似てきている。戦争は反対。争い事をやめ、他人のために一生懸命になれる人になってほしいと若い世代に伝えたい。

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