父は既に戦死し、桜馬場町に母と2人で暮らしていた。学校は夏休みだった。隣組の防火訓練や竹やりの訓練などはあったが、いたって普通の毎日だった。
あの日の朝、母は新大工町の市場に買い物に出掛け、私は自宅で本を読んでいた。突然、周囲が真っ黄色になり、驚いて台所の勝手口から外に出た瞬間、地球が壊れるかと思うほどの地鳴りと爆風に襲われ、恐怖でしゃがみ込んだ。しばらくして顔を上げると、舞い上がったほこりで周囲がねずみ色に変わっていた。何が起きたのか分からないまま、近くの森に向かう大人たちに付いて無我夢中で逃げた。
森にたどり着いて20分ほどたったころ、逃げてきた母が私を見つけ、ほっとした表情で近付いてきた。うれしくてたまらなかった。夕方には町内会長の指示で帰宅。建具が倒れ畳は吹き上げられており、元に戻すのが大変だった。
翌日、近所の人から「伊良林国民学校のグラウンドで遺体を燃やしているらしい」と聞いた。多くの人が死んだ現実を理解できず「行くな」と止める母を振り切ってグラウンドに向かった。馬車で運ばれてきた遺体が次々と火の中に入れられ、表現できないほど嫌な臭いが漂っていた。「むごい」。見続けることができずその場を立ち去った。この日から、学徒動員先から戻った近所の女学生や男子中学生の話も耳に入るようになった。半身にやけどを負っていたり、服がぼろぼろになっていたり。大人たちが話していた“新型爆弾”のすさまじさがだんだんと分かってきた。
15日、自宅のラジオで玉音放送を聞き「日本は壊滅していくんだ」と落胆したが、「神風が吹いて助けてもらえる」「絶対に勝つ」と信じていただけに素直に敗戦は受け入れられなかった。だが夏休みが終わったある日、米軍人が学校の講堂を使うためやって来た。日本陸軍のトラックよりも大きな車両や軍人らの体格の良さに驚き、「これじゃかなわない」と感じた。
思い出したくないし、話もしたくない。そう思い2人の息子にも伝えなかった被爆体験を、約10年前から語り始めた。別の被爆者が小学生に体験を講話する場に招かれ、その姿を見るうちに私も伝えなければならないとの思いが湧いてきた。「核兵器は人を狂わせる。本当の幸せは何か考えよう」。そう今後も訴えていきたい。
<私の願い>
子や孫に同じ体験をさせたくない。今後も語り部として、一校でも多くの子どもたちに被爆の実相を伝えたいと思うが、被爆者だけで原爆のむごさを訴えるには限界がある。国民全体が核廃絶へ向け声を上げなければならない。